伊豆国中部山間地域から流れる狩野川の支流が注ぐ天然の良港・江浦湾に臨む港町。戦国期には、伊勢国や三河国、遠江国など太平洋沿岸の遠隔地との水運で栄えていた。
伊勢船の来航と楠見氏の支配
戦国期、江浦は今川氏の重臣・葛山氏の支配下にあり、同氏の代官・楠見氏によってその支配は実行されていた。弘治三年(1557)三月、葛山氏元が楠見善左衛門尉に宛てた書状からは、当時の江浦には「伊勢船」をはじめとする大小の舟が集まって諸商売をしていたことが分かる(「久住文書」)。また葛山氏は、楠見氏に対して問屋経営や浦支配の方法について指示を与えている。
楠見(久須美)氏の活動
この楠見氏の同族とみられる久須見土佐守は、元亀二年(1571)十一月、徳川家康から分国中(三河、遠江、駿河)の諸浦において、船一艘の諸役免除を認められている(「久住文書」)。このことから、久須見氏は少なくとも船一艘以上を持ち、三河や遠江といった遠隔地間を廻船によって活動していたことがうかがえる。
葛山氏元の書状やこの楠見(久須見)氏の活動からは、戦国期の江浦が伊勢や三河、遠江など広域を結ぶ太平洋水運の拠点であったことが分かる。また伊豆半島の西の付根に位置することから、太平洋水運の端点であったとも推定される。