戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

末次 すえつぐ

 出雲国宍道湖東岸の港町。白潟の対岸にあり、亀田山(現在の城山)南方の砂州上に形成されていたと推測されている。永禄年間の毛利氏侵攻以前から町場が形成されていた。江戸初期、堀尾氏により建設された松江城下町に取り込まれた。

白潟橋北側の町場

 中世後期、亀田山(現在の城山)の山裾には東福寺領末次荘が広く展開していたと考えられている。戦国期には、末次荘内が中原分・森分に大別されていて、在地領主の中原氏、末次氏が存在していた。物流拠点としての末次は、亀田山南方の砂州上に形成されたものと推測されている。

 永禄五年(1562)頃から毛利氏の出雲侵攻が本格化し、永禄六年(1563)十月には「あらわひ崎」(松江市国屋町)に着陣。同年十二月、毛利元就が末次平右衛門尉に対して「市屋敷」を安堵している(『伯耆志』所収末次文書)。このことから、毛利氏の侵攻以前から末次に町場が存在していたことがうかがえる。

 同じ頃、毛利氏は毛利元就家臣・河村又三郎を「白潟末次中町」の「磨師(とぎし)・塗師(ぬし)・鞘師・銀細工悉司(つかさ)」に任じている(『萩藩閥閲録』巻98)。この職人統括の権限は、直接的には武器(刀剣)の製造や調達に関わるものとみられるが、白潟橋の南北の町(白潟と末次)に多種多様な職人集団が存在していたことが分かる。

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松江城下町の建設

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、毛利氏は出雲国を離れ、周防・長門へと移る。出雲国隠岐国は堀尾忠氏に与えられ、堀尾氏は同年十一月に出雲国に入国(「堀尾古記」)。当初は月山富田城を本拠地とした。

 しかし忠氏は入国から四年後の慶長九年(1604)に死去。忠氏の子の忠晴が跡を継いだが、まだ幼かったため、以後は祖父の吉晴が政務を代行することとなった。慶長十四年(1609)、出雲大社遷宮において、吉晴が領主として署名している。

 末次の亀田山における「松江城」築城は、吉晴代行期の慶長十二年(1607)から同十六年(1611)にかけて行われた。上記の末次および白潟の町場を前提に松江城下町建設も進められたとみられる。江戸期の松江城下町には、町名として末次町、末次本町などが残る。

 「堀尾古記」には、工事開始の二年目の慶長十三年(1608)十月二日の項に「松江越」という記述があり、富田から新城下へ移転したものとみられる。実質的にこの移転を契機に、「松江城」が出雲・隠岐両国の支配拠点となったと考えられるている。

 なお寛永十年(1633)の出雲国絵図では、城は「末次城」とされ、その城下町は「松江」と記されている。城が「松江城」と記されるのは正保二年(1645)の出雲国絵図からとなる。

参考文献

松江城天守閣から宍道湖方面を見る

松江城の本丸と天守

松江城天守の古材。分銅文と「富」の字の刻印をもつ部材がある。分銅文は、堀尾氏の家紋。「富」は堀尾氏が出雲国入部の際に居城とした富田城を意味するのではないかとの説があるという。松江城天守築城の際に富田城から運んだ部材を転用したとの推測もある。

松江城の水の手門

二の丸下の段と石垣

二の丸下の段

北惣門橋。江戸時代は内堀(京橋川)東側にあった家老屋敷(現松江歴史館)と城内を結ぶ重要な通路だったとのこと。

塩見縄手の武家屋敷。松江城北側の堀沿いのエリア。名称は松平直政の家臣・塩見小兵衛の屋敷があったことに由来するという。直政が松江城に入った寛永十五年(1638)以後、中老格の家臣の屋敷町が形成されたといわれる。

堀川

塩見縄手

小泉八雲が生活していた小泉八雲旧居

灯籠と堀

松江城三の丸跡の松平直政

堀川

筋違橋。松江城天守から見て南西の京橋川に架かる橋。敵の侵入を防御するために、道とは筋違いに橋を架けて直進を妨げる目的だったとのこと。橋の北側には「勢溜(せいだまり)」と呼ばれた広場が設けられ、橋を渡った敵を攻撃するねらいがあったという。

阿羅波比神社。『出雲国風土記』にも名前がみえる神社。元は洗合山(現在の南平台)にあり、永禄五年(1562)、毛利元就が尼子氏を攻めるために洗合山に築城した際に、現在地に移されたと伝えられている。

大雄寺。松江開府のとき、安来市広瀬町から移転してきたという。

清光院。天文十一年(1542)に高橋式部大輔清光が寺を杵築(大社)に建立し、その法名「清光」を寺号としたという。寺は後に安来市広瀬町に移転し、慶長五年(1600)頃に現在地に再移転したとされる。

月照寺唐門。月照寺は元は洞雲寺と称したが、寛文四年(1664)、松平直政が生母の月照院の霊牌を安置するために改称・復興した。

法眼寺