北国街道脇往還が通る小谷山(小谷城)の南西麓に形成された城下町。戦国大名・浅井氏の本拠地として江北の政治的中心となって栄えた。
小谷城麓での饗応
天文三年(1534)八月、浅井亮政は小谷城の麓である清水谷の居館に京極氏を招いて饗応している。この頃までに浅井氏の消費を支える城下町が、ある程度形成されていたと推定される。
小谷の他国商人
永禄九年(1566)九月、浅井長政は「料足掟条々」を定めた。その第六条目において、「当谷」(小谷)に居住する他国出身者や「其外往還之商人」が、浅井氏が定めた目的以外で「撰清銭」を本国へ送ることを厳しく禁じている。このことから小谷には他国出身者が居住し、商人の往来があったことが分かる。
小谷の町
また永禄初年頃の紙荷論争関係史料である「条々」の最後の条に、「当国北郡小谷にても、小島口にても、紙之出る所へ罷越、商買仕儀候」とある。桑名とともに小谷が紙商買の対象となっている。消費都市としての小谷の姿がうかがえる。
『信長公記』にも、織田氏の小谷城攻撃に際し、「町を焼き払ふ」「町をやぶらせられ」などの記述がある。小谷城下の「町」の形成を裏付けている。
長浜への強制移転と衰退
しかし、天正二年(1574)、浅井氏にかわり羽柴秀吉が江北を治めることになる。秀吉は今浜に新城下町の建設を進め、ここを自領である江北地域の中心とする。長浜(新城建設に伴い「今浜」から改名)へは、小谷の町人が各町ごとに丸ごと強制移転させられた。これを機に、小谷の町は徐々に衰退へ向かうことになる。