戦国期の陸奥国の有力国人・留守氏の居城・高森城の城下町。その所在は東北を縦貫する奥大道上に位置する現在の仙台市岩切周辺と推定されている。
陸奥国府
平安期に陸奥国経営の中心であった陸奥国府を前身とする。文治五年(1189)十月、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は多賀国府で戦後処理を行い、府庁に「一紙の張紙」を掲げて施政方針を示したという(『吾妻鑑』)。
奥大道の宿町
南北朝期の観応年間、陸奥国を旅した宗久は北上して「たかのこふ」(多賀国府)に着き、ここから「おくのほそ道」に入った(『都のつと』)。おそらく奥大道上に位置する多賀国府には、宿町があったと推定される。
町場の形成と住人たち
『都のつと』に記された町が、応永二十六年(1419)十二月の余目氏の譲状に「上まち」「下まち」としてみえる。同譲状には「五かいちハ」(五日市場)もみえるが、これは弘安八年(1285)四月の留守家広譲状に冠屋市場とともにみえる河原宿五日市場のこととみられる。
この両市場には市場在家があって町場が形成されていた。住人の中には「和泉入道」や「西国弥次郎」など、西国出身の商人とみられる者もいた。
留守氏の城下町
戦国期、多賀国府は国人・留守氏の城下町にとりこまれる。天文十七年(1548)頃作成された『留守分限帳』によれば、当時の留守氏家臣団は多賀国府に半在家を含めて四十軒分の町在家を有していた。
多賀国府に在家がある者の中には「土器藤兵衛」や「とうや(烱屋)大覚」、「はんちやう(番匠)大蔵」といった名が見える。留守氏に直属する土器製作や製鉄、建築などの職人とみられる。