戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

白潟 しらかた

 出雲国宍道湖東岸の港町。宍道湖東側の出口に形成された砂州の先端付近に形成されたとみられる。水陸の交通の要衝であり、また職人ら多くの住人を抱える都市でもあった。

水陸の要衝

 中世の白潟は、宍道湖東側の出口で、北に向けて伸びる細長い砂洲の先端付近に形成されたと考えられている。そこは、宍道湖と中海を結ぶ内海水運の要衝であるとともに、意宇郡と島根郡を橋によって結ぶ陸路の要衝でもあった。

 貞和六年(1350)八月十三日、足利直冬方と幕府方の軍勢が「白潟橋上」において「終日」戦っており(「小野家文書」『萩藩閥閲録』巻66)、白潟が軍事的な重要拠点であったことがうかがえる。また「白潟橋」が14世紀半ば以前から存在したことも確認できる。なお14世紀末の「大山寺縁起絵巻」にも、橋姫大明神(売布神社)と思われる鳥居とともに橋が描かれている。

 天正三年(1575)六月二十二日、薩摩へ帰国中の島津家久の一行は、伯耆国米子の町を出発した後に出雲国馬潟で「関」(通行料)を支払い、「しらかた(白潟)」という「町」に着船し、小三郎という者の所で昼食をとっている。白潟からはさらに船で宍道湖を西に進み、平田の町に着いて宿泊している(「島津家久上京日記」)。白潟が中海・宍道湖の水上交通の要衝であったこととともに、「町」と表現される港湾都市であったことがうかがえる。

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繁栄した町場

 明応四年(1495)正月、白潟橋姫大明神(売布神社)に白潟の有力者・松浦道念*1が寄進を行なっている(「売布神社文書」)。この時の寄進状には「両目代、又にし・ひがしおとな中」と記されており、当時の白潟が東西二つの町場から構成され、それぞれに諸役徴収などを行う支配機構の末端である「目代」と、住人代表層である「おとな(乙名)中」が存在していたことが分かる。目代が2名いたことから、当時の白潟の町がかなりの規模を有していたことがうかがえる。

 また永禄六年(1563)頃、出雲国へ侵攻していた毛利氏は、毛利元就家臣・河村又三郎を「白潟末次中町」の「磨師(とぎし)・塗師(ぬし)・鞘師・銀細工悉司(つかさ)」に任じている(『萩藩閥閲録』巻98)。この職人統括の権限は、直接的には武器(刀剣)の製造や調達に関わるものとみられるが、白潟橋の南北の町(白潟と末次)に多種多様な職人集団が存在していたことが分かる。

 後世の伝承によれば、松江開府以前の住人として、柴田氏、島谷氏、本町の森脇甚右衛門、売布神社の青戸社司らがいたという。また舟目代松浦六右衛門が開府以前から大橋南詰にあり、伊予屋庄兵衛、持田屋、菊屋などの豪商もいたとされ、人口は千人を下らなかっただろうとされている。売布神社の元亀三年(1572)「古縁起」には、この町に毎月六斎市を立て、恵美須を祝い売買で賑わったと記されている。

京極氏・尼子氏と白潟衆

 永享十一年(1439)三月、京極氏被官の若宮栄藤が「橋姫大明神」に対して「御屋形之御祈祷料」*2として、また「栄藤か子孫マテ」祈祷のために神田一段を寄進(「売布神社文書」)。また享禄三年(1530)七月と享禄四年(1531)四月には京極氏一族の鞍智右馬助久信が橋姫大明神へ灯明田などを寄進している(「売布神社文書」)。鞍馬右馬助は天文九年(1540)八月、竹生島奉加帳に尼子氏の「御一族衆」として記されている(「宝厳寺文書」)。これらのことから、出雲守護・京極氏やその被官で出雲支配を継承した尼子氏が、白潟と深い関わりを持っていたことがうかがえる。

 このため、白潟は尼子氏と毛利氏の戦争で尼子方となっており、永禄五年(1562)、毛利方の本城氏の放火を受ける(「森脇覚書」)。その後毛利氏の支配を受けるが、永禄十三年(1570)二月、「白潟衆」が尼子勝久方として合戦に及んだため、毛利氏によって残す所なく放火された(「毛利家文書」『萩藩閥閲録』巻101「譜録・南方九左衛門親政」)。

 毛利氏と戦った「白潟衆」は、「おとな中」が率いる白潟住人たちであったと考えられ、彼らが「衆」としてまとまった軍事行動を取り得る基盤を持っていたことがうかがえる。

毛利氏の支配

 天文十一年(1542)、周防大内氏が出雲国へ侵攻した際、これに従軍した安芸毛利氏は白潟に陣を敷いている(「二宮俊実覚書」)。永禄十二年(1569)十月、毛利氏は出雲国仁多郡の領主・三沢為清に「三百貫津田白方共」を給付(「三澤文書」)。上記のように永禄十三年(1570)二月に毛利氏が白潟を制圧しているので、三沢氏の白潟支配はこれ以降と考えられる。

 一方で、元亀元年(1570)十二月、毛利氏は羽倉城主の多賀元龍領中衆中に対して「白潟・馬潟橋役」を免除している(「多賀文書」)。白潟が三沢領となった後も、白潟橋の維持管理もしくは通行税徴収権は、毛利氏の管轄下にあったことが分かる。

 三沢氏の白潟支配は天正十七年(1589)には終了したと考えられ、その後は吉川広家の領地となった。天正二十年(1592)、意宇郡を領していた広家は、神魂社における普請の夫役として「白潟之者「大庭之者」を徴するとともに、それに関連する湯立神事用途として、銭3貫文を富田から、米1石を「白かた」から供出させている(「秋上家文書」)。当時の白潟が、人や物の調達拠点として重要であったことがうかがえる。

参考文献

宍道湖大橋から見た白潟の町

松江大橋北詰から見た白潟の町

松江大橋南詰付近

白潟の町

出雲ビル。1925年に、松江市で最初に建てられた鉄筋コンクリートのビル。

売布神社。中世は「橋姫大明神」として信仰を集めた。

白潟の町

白潟の町

寺町の由来を伝える看板。寺町には松江開府以前から寺院があったが、堀尾吉晴が富田城から移ってきたことで、さらに10以上の寺院が移転。石屋や古道具屋、土産物屋等が立ち並び門前町として栄えたという。

常栄寺。応永年間に成立した理光庵を、永禄十三年(1570)に毛利元就が嫡男隆元(法名常栄)の菩提を弔うために修造し、常栄寺と改号したと伝えられる。

寺とビル

奥の寺院は宗泉寺。宗泉寺は、明徳元年(1390)に松浦熊太郎が開基し、その子孫の松浦貞房が文安二年(1445)に再建したという。

安栖院。応永年間に湯原氏が再興し、寺号を梅林庵から安栖院へ改称したと伝えられる。かつては宗泉寺の南隣に位置していたという。

白潟天満宮。もともとは富田城内に社殿があったが、慶長年間に堀尾吉晴が松江の亀田山(現在の松江城)に移る事になった際に、白潟に移転したという。

青柳楼の大燈籠。高さ6メートル余り。もともとは明治初期から歓楽地として賑わった白潟天満宮の裏(天神裏)で、代表的な料亭の一つ「青柳楼」にあった。当時、その場所は宍道湖の波打ち際であり、燈籠は入江の灯台の役目も果たしていたという。

*1:松浦道念は明応八年(1499)九月の文書に「白方松浦道念」としてみえる(「売布神社文書」)。この文書から、道念は長田西郷市成村「ほりの内名」内も永代買得して橋姫大明神へ寄進していたことが知られる。明応四年の寄進と併せ、道念が寄進の為に何度も土地を買えるような財力を持つ存在であったことがうかがえる。

*2:「御屋形」は当時の京極氏当主の京極高数を指す。