戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

コタバト Cotabato

 フィリピン南部のミンダナオ島に栄えたマギンダナオ王国の王都。マギンダナオ王国は、16世紀に初頭にイスラームを受容し、フィリピンに進出したスペインと激しく争った。貿易面では、周辺の海洋民を勢力下におき、テルナテなどマルク諸島との交易が活発だった。

マギンダナオ王国の勃興

 マギンダナオが、本格的に王国として発展したのは、ブルネイ王国やスールー王国と同じ16世紀初めごろにイスラームを受容したことがきっかけという。

 王統系譜によると、マレーシア半島のジョホールからカブンスアンという人物が、サマル人をともなって移住してきた。まずイラヌン人が居住していたイリャナ湾岸でイスラームを広め、そこを足場にプラギ川流域のマギンダナオ人にイスラームを広め、勢力範囲を拡大していった。

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マギンダナオの地勢

 マギンダナオは、ミンダナオ島の巨大な湿地帯の中の王国で、河口付近は山がちでデルタを形成していない。湿地帯の河口に近い小高いところに、現在のコタバトを中心とした狭義のマギンダナオ王国があった。

 湿地帯の南端近くにブアヤン王国があり、広義のマギンダナオ王国はブアヤン王国を含む。コタバトを中心とするマギンダナオ王国は貿易に有利で、ブアヤン王国は穀倉地帯を抱え、林産物の集積地となった。

 ブアヤン王国は、さらに南のサランガニ湾へと通じ、古くからサンギル人との密接な交流があった。マギンダナオは、サンギル人を通してテルナテとの関係が深かった。

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スペイン人との戦い

 スペインはルソン島からマルク諸島への中継地を確保するため、1578年(天正六年)以来何度かマギンダナオに攻撃を加えた。それに対してマギンダナオはスールーとの婚姻関係を密にして結束し、周辺地域のムスリムとともに、スペイン勢力のルソン島ビサヤ諸島を襲撃した。

 最も激しかった1599年(慶長四年)から1603年(慶長八年)だけで、数千人のカトリック教徒を捕虜奴隷としたという。これらの襲撃には、マギンダナオ、スールーのムスリムだけでなく、テルナテ、ボルネオ島北部、サンギヘ諸島、ミンダナオ島東岸のカラガ地方の住民も参加し、非ムスリムも多く含まれていた。

王国の発展と貿易

 1579年(天正七年)のスペインの遠征隊の報告によると、プラギ川流域の人口は最大の集落でも1000人で、合計7950人であった。それが、1700年のオランダの調査では、戦闘員だけで王都に3000人、プラギ川流域合計で2万1150人、イラヌン人やマラナオ人など周辺支配地域を加えて、5万9650人にのぼった。プラギ川流域だけで人口が8倍に増加したことが分かる。

 17世紀に入り、マギンダナオはオランダや中国との貿易が活発になっていた。主にマルク諸島で不足する米や蝋燭の原料、ろうけつ染め(バティック)用の蜜蝋を輸出した。マギンダナオの指導者クダラトは、1625年(寛永二年)にサランガニ諸島を攻撃してサンギル人の勢力範囲をおさえて、蜜蝋などの貿易を統制した。また、海洋民イラヌンに加えて、漂海民バジャオを勢力下において、海上活動を有利に進めた。

 クダラトは1645年(正保元年)頃からスルタンの称号を使いはじめる。1656年(明暦二年)には、ジハードを宣言。スールー、テルナテ、ブルネイマカッサルに対し、スペインとの戦いを呼びかけるにいたった。

参考文献

  • 早瀬晋三「海域東南アジア東部ー「海の領主」、交易商人、海洋民」(『岩波講座 東南アジア史 第4巻 東南アジア近世国家群の展開』 2001)