琉球船によって中国や東南アジア各地に輸出された日本製の刀剣。17世紀の琉球について記した『中山紀略』土産条では「刀」や「摺扇」、「漆器之類」などが全て日本から来るとされている。
中国に輸出される刀剣
『中山世鑑』嘉靖十四年(1535)の条には、大明貢船がおびただしい数の刀剣を搭載していたことが記されている。日本刀は日明貿易における日本側の主要な輸出品の一つであったが、琉球もまた日本刀を仕入れて自国使用以外にも中国との貿易品に充てていたことがうかがえる。
日本刀は室町期には一貫文の刀剣が明では十貫文で売れたといわれており、対明貿易で利鞘の稼げる交易品であった。
東南アジアにおける琉球人のイメージ
日本刀は琉球船によって、東南アジアにも大量に輸出されていた。日本刀は現地では琉球の音である「リキウ」とか「レケオ」などと呼ばれており、琉球人自身も東南アジアでは、現地語で刀剣を意味する「ゴール」に由来して「ゴーレス」とも呼ばれていた。
「ゴーレス」の名称こそが、二本差の日本刀を帯びて大量の日本刀をもたらす琉球人を象徴する呼称だったのだろう。
アラビアに知られた刀剣
1490年(延徳二年)ごろにアラビアの海洋地理学者イブン・マージドが、ジャワの言葉で「リキーウー」と呼ばれたすばらしい切れ味の剣について記している。東南アジアにおける日本刀の史料上の早い例である。
東南アジアに浸透する琉球の刀剣
ポルトガル人のトメ・ピレスも『東方諸国記』の中で、レケオ(琉球)人がマラッカに一振りが30クルサードの価格の刀剣をたくさん携えて来るとしている。またルイ・デ・アラウジョは書簡の中で、マラッカには約4万人の兵士がいるようだと記すとともに、彼らの武器は槍と琉球人(ゴーレス)がもたらす刀と、現地生産の刀と弓矢だとしている。日本刀が当時のマラッカ王国軍の主要な武器となるまでに普及していたことが分かる。
1565年(永禄八年)付けのスペインの記録には、日本人がフィリピン・ルソン島にもたらした上質で片刃の刀剣が、レケオと称されていたと報告されている。ルソン島は琉球が交易品として扱った金の産地であり、金の対価として琉球人がもたらす日本刀がフィリピンでもよく知られていたことがうかがえる。