戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ブルネイ Brunei

 ボルネオ島カリマンタン島)北西部の港市。南シナ海に面した天然の良港に恵まれ、高価な竜脳を代表とするボルネオ島産物の積出港として知られた。ルソン島やモルッカ(マルク)諸島とマラッカを結びつける中継港としても栄えた。

中国への朝貢

 中国の文献には「勃泥」などとしてみえ、遅くとも971年(天禄二年)から宋朝朝貢している。13世紀、『諸蕃志』には「城中に住民一万余、一四州を統括」とある。集落の域を脱し、都市としての発展をみせていたことが分かる。

 15世紀初頭には、明朝への積極的な朝貢貿易を展開。その後、ブルネイ朝貢は途絶するが、16世紀初頭からは華人海商がブルネイ渡航しはじめる。

イスラム化と都市の発展

 1511年(永正八年)、それまで東南アジア交易圏の中心にあったマラッカがポルトガルに占領される。この後、ブルネイには拡散したイスラム商人たちが訪れるようになり、ブルネイもまたイスラムを受容する。

 1521年(大永元年)、ブルネイを訪れたスペインのフェルディナンド・マゼラン隊は、湾内に25,000戸のイスラム教徒の町とそれより大きい「異教徒」の町があり、イスラム王族以外は海上に居住していると伝えている(『航海の記録』)。ブルネイはこの頃までにイスラム化し、地域の中心都市へと成長していることがうかがえる。

 またイスラム化したブルネイ王国はマニラの首長と婚姻・同盟関係にあり、ルソン島などフィリピン諸島と活発に交易していた。

東南アジアの中継港

 1524年(大永四年)、ポルトガル人もマラッカからブルネイ渡航。1526年(大永六年)にはマラッカからブルネイを経てモルッカ諸島にいたる新航路を開拓した。

 1544年(天文十三年)五月、中国人のジャンク船に乗船して東南アジアのパタニを出港したガリシア*1ペロ・ディエスは、中国の漳州や双嶼などで取引をした後に日本に渡航。日本の港で中国人のジャンク船の襲撃に遭いながらも、翌年に日本を発ち、ブルネイ渡航し、そこでモルッカ諸島に向かうポルトガル船に乗ってテルナテ島に渡っている(「エスカランテ報告書」)。

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カスタニェーダの記述

 ポルトガルの歴史家カスタニェーダの『ポルトガル人のインディア発見と征服の歴史』には、1530年(享禄三年)にモルッカ長官として赴任するゴンサロ・ペレイラが、マラッカからブルネイを経由してテルナテ島に赴く際のこととして、次のような記事がある。

この(ボルネオ島の)海岸には、5つの大きな集落がある。それらはいずれも海港で、モドゥロ(マルドゥ)、セラヴァ(サラワク)、ラヴェ(ラワイ)、タンジャプラ(タンジュンプラ)、そしてこの島の名となているボルネオ(ブルネイ)である。

この(ブルネイの)都市は大きく、煉瓦の壁と立派な建物に囲まれ、もっとも主要な建物にはこの島の王が住み、多くの豪華な品々がある。

(中略)どの港にも、多くのとても豊かな商人が住んでいる。彼らは中国、レケア(琉球)、シャム、マラッカ、サマトラ(スマトラ)、および周囲のその他の島々と交易を行っている。

彼らは竜脳、ダイアモンド、沈香、食料品などを運んでいく。(中略)彼らはあらゆる種類のカンバヤ(クジャラート)の織物や、銅、水銀、辰砂、カショ、プショなどを持ち帰る。

 ブルネイなどのボルネオ島諸港の大商人たちは、中国や東南アジア主要港市のほか、琉球とも交易を行なっていたことがうかがえる。

 上記のブルネイ人が(おそらくマラッカから)輸入する商品のうち、カショとプショはカンバやから輸出される香薬である。また琉球との交易により、日本産の銅や水銀、辰砂がブルネイにもたらされた可能性が指摘されている*2

トメ・ピレスの記述

 1512年(永正九年)にマラッカに赴任したポルトガルトメ・ピレスが著した『東方諸国記』にも、当時のブルネイの交易の様子が詳しく記されている。

 同書によればブルネイは、フィリピンのルソン島と交易しており、同島から商品が船で運ばれて来ていたととする。またブルネイ人もルソン島に赴いて黄金や食料を買い入れていた。黄金はルソン島を含む周囲の島々で産出したものだったが、ピレスは、他の地域のものと比べ、たいへん品質が劣っていると評している。

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 ブルネイ人はマラッカに、黄金や竜脳、ミラブラノ・ケブロ*3、蜜蝋、蜂蜜、米、サゴ*4、オラカ(蒸留酒*5)を携えて来航したという。黄金は上記のようにルソンとの交易で入手したものだったが、ピレスはその品質について、他の地域のものと比べ品質がたいへん劣っていると評している。

 ボルネオ島は特に竜脳の主産地として知られていた。ピレスはブルネイ人が「非常に高価な竜脳」を運んでくるとし、その種類と品質とによって12クルサドから30ないし40クルサドの値段がすると記している。

 ブルネイ人は、マラッカからベンガラ産の各種衣服を持ち帰った。またシナ(中国)の真鍮の腕輪、カンバヤから来るガラス玉や真珠の数珠球を持ち帰った。彼らはこれらの織物や数珠球をもって黄金の産する島に行き、黄金と交換したという。

スペイン勢力との対立

 1565年(永禄八年)ころ、スペインのレガスピ隊がフィリピン海域に進出すると、ブルネイ船はレガスピ隊と各地で海戦を繰り返すことになる。しかし、1581年(天正九年)には、スペイン勢力によってフィリピン海域からブルネイは駆逐される。

 やがてもルッカ諸島への中継地としての役割もマカッサルに移ったことで、ブルネイの勢力は衰退していく。

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参考文献

ボルネオ島の地図(1601年) ベンジャミン ライト 1646年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

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ブルネイのモスク from写真AC

*1:ガリシアはスペイン西北部

*2:琉球は日本産の銅を主要輸出品としていた。また15世紀初頭に日本から中国に水銀が、16世紀前半に日本から朝鮮への辰砂輸出が史料上確認できる。

*3:シクンシ科の植物で、果実は薬用に用いられた。ピレスは1516年1月、コチンからポルトガル王マヌエル1世宛の書簡で、「ミロバラン」には5種類あり、4種類はマラバル、バルクール、バスルール、マンガロールに産し、ケブロはベンガル、マラッカ、ボルネオに産する」と述べている。

*4:ピレスはサゴについて、「身分の低い人々の食料で、パンの中身のようなもので、砂糖漬けの要領で作られる」と記している。一方で、「値段が高い」ともする。

*5:蒸留酒の一種であるアラック酒のこととみられる。「荒木酒」「阿刺吉酒」などとして史料にみえる。