戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ペグー Pegu

 ビルマ南部に栄えたペグー王国の首都。1539年(天文八年)にトゥングー王国に占領されてからは同国の首都となった。ベンガル湾沿岸地域の東端に位置し、近隣の港湾都市であるコスミンやダゴン、マルタバンなどを外港として同地域とインドシナ半島、東南アジア島嶼部との結節点を担った。

イタリア商人の来航

 ペグーはプリカットなどのインド・コロマンデル諸港市と航路で結ばれていた。この交易路を利用して、15世紀にはヴェネツィア商人もペグーに至っている。その後も、ボロニアやジェノヴァフィレンツェなどのイタリア商人がペグーに来航した。

 特にポルトガルと提携していたフィレンツェ商人は、ペグー産のルビーなどを求めて多くの代理商人を送っていた。

インドとの貿易

 ペグーとインド方面との貿易は、16世紀初頭に著されたドゥアルテ・バルボザの地理書からうかがえる。これによれば、ペグーには毎年多くのイスラム教徒の船が「パトラ」と呼ばれるカンバーヤ(インド北西の都市)の織物をはじめ、阿片や銅、珊瑚、辰砂、水銀などを携えて取引にやってきた。特にパトラは、ペグーではたいへん高価であったという。

 ペグーからは白砂糖や上等なラックをはじめ、マラッカからペグーにもたらされる中国の商品、内陸の交易都市・アヴァからもたらされる麝香などが輸出された。

 ラックはヨーロッパ人によっても、ペグーから積み出された。1511年(永正八年)、インドからリスボン行きの帆船に、6万443キロものラックが積載されている。1570年(元亀元年)にイタリア商人シーザー・フェデリッチは、インドのサン・トメに出入りする船について「毎年サントメからペグーへカラック船が出る。それは九月の十日か十一日、遅くとも十二日には出港する。」と述べている。

マラッカ方面との交易

 またトメ・ピレスは『東方諸国記』の中で、ペグーとマラッカやパサイとの貿易について記している。ピレスによれば、ペグーの主要な商品は米であった。ペグーの後背の稲作地帯で生産された米は、15世紀以降、マラッカをはじめとしてタイやスマトラ北部、コロマンデルの一部地域に食糧として供給された。

 米以外には大量のラック、安息香、麝香、宝石、ルビー、銀、食料品(バターや玉ねぎや、にんにくなど)がペグーから輸出されていた。これらの交易品をもとに、ペグーの船はマラッカからは粗末な陶器、大量の水銀、銅、辰砂、緞子、莫大な錫、少量の香辛料(チョウジ、ニクズクなど)を積み出し、帰路に経由するパサイからは胡椒を積んでペグーの外港であるマルタバンに向かった。

東南アジアで活躍するペグー商人

 ペグー商人はこの活発な貿易を背景に、マラッカで港務長官を担当した。またアチェにカンポン(居留区)を形成するなど、東南アジア各地で活発に活動している。

参考文献