ルソン島を中心とするフィリピン諸島において産出された金。東南アジアだけでなく中国や日本にも輸出された。
フィリピンの特産物
1461年に完成した『大明一統志』には、永楽三年(1405)に呂宋(ルソン)から「土産黄金」が朝貢されたことが記されている。この時期には、金がルソンの代表的な産物となっていることが分かる。
アントニオ・モルガは「フィリピン諸島誌」で、フィリピン諸島の各地には砂金金鉱山があって原住民が採掘していることを記している。特にルソンのカマリネス州の産採取地や金と、イロコ族による精錬と取引を挙げている。
琉球の金貿易
トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、レキオ(琉球)人はジャンポン(フィリピン・パラワン島)に赴き、商品と交換に黄金と銅を仕入れ、マラッカに大量の黄金を携えて来航したという。つまり、琉球人はマラッカへの航海の途中でパラワン島に寄港し、商品の一部と交換に黄金を仕入れ、それをさらにマラッカなどで転売していたのである。
なおブルネイ人も、ルソン島と交易した黄金を携えてマラッカに来航していた。ただし、ピレスはブルネイ人がもたらす黄金について、他の地域のものと比べ品質がたいへん劣っていると評している。
また1566年刊行の『ドン・マヌエル王国記』には、レケオ(琉球)人をはじめ、現地人とみられるゴール人、ジャポンガ人のジャンク船が大量の金を積載して中国に渡来していたことが記されている。
日本商人の参入
16世紀後半には、日本商人による金の輸入が史料にみえるようになる。1567年六月二十三日付セブ島発の書簡で、ミゲル・ロペス・デ・レガスピはスペインのフェリペ二世に対し、ルソン島やミンドロ島にシナ人や日本人が毎年来て交易し、絹や陶器、扇、鉄などと交換に金や蜂蝋を積出していると報告している。
特に日本商人は、日本国内で爆発的に産出された銀をルソン島に持ち込んだ。1575年ごろ、ファン・バーチェコ・マルドナドがフェリペ二世に奉った書簡によれば、毎年来航する日本船の主要な交易は金と銀との交換であり、交換レートは金1に対し、銀2~2.5であったという。
文禄・慶長の役後の脅威
1599年七月十二日付の報告で、ドン・フランシスコ・テーリョは、朝鮮での戦争を終えて帰国した十万の日本兵の一部がルソン島に来寇することを憂慮している。その理由として、ルソン島の金に対する日本人の渇望を挙げている。