戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マジャパヒト Majapahit

 ジャワ島東部に栄えたマジャパヒト王国の王都。ブランタス川の下流右岸平地(現在のトロウラン)に位置した。同国は元朝や明朝とも通交しており、琉球使節が訪れたこともあった。

15世紀中頃の王都

 15世紀中頃の王都マジャパヒトについては、明朝の馬歓*1が1451年(宝徳三年)に完成させた『瀛涯勝覧』に詳しく記されている。

 『瀛涯勝覧』によれば、ブランタス川河口のスラバヤ(「蘇兒把牙」)から小舟で70〜80里行くと「章姑」という船着場があり、上陸して西南に向かって1日半でマジャパヒト(「滿者伯夷」)に着くという行程だった。

 マジャパヒトには200〜300軒の住居があって、7〜8人の頭目が王を補佐しているとする。住民は大きく3つに分けられ、一つは西方諸国から来たムスリム商人(回回人)、一つは広東、漳州、泉州出身でムスリムの中国人(唐人)、もう一つは「鬼教」を信仰する現地人(土人)であった。また中国歴代の銅銭が通用したという。

 住居についての記述もある。王の居所は、周囲約200歩*2、高さ約3丈の磚造の壁で囲われていて、内部は門を重ねて、整然と区画されていたという。住房は高樓のようで高さは3〜4丈、床は板敷きの上に細い藤蔓の敷物や花筵を敷いて膝を曲げて座る、としている。

 王の居所の屋根は硬木の板葺きであるが、一般の住居は草葺きだった。各住居には高さ3〜4丈の高さの磚造の蔵があり、起居寝食はその上で行ったという。

マジャパヒト王国の成立

 マジャパヒト王国の成立以前、東部ジャワには13世紀前半からシンガサリ王国が栄えていた。シンガサリ王国は、インド的な様式にもとづく、ヒンドゥー教あるいは大乗仏教を基礎とする国家だった。

 1292年(正応五年)十二月、このシンガサリ王国を目指して、元朝(大元ウルス)の遠征軍2万人が泉州を出発した。元朝の度重なる朝貢要請を、シンガサリ王国が拒否したためであった。

 一方で、元朝が遠征準備を進めていた頃、シンガサリ王国では反乱が勃発。王都シンガサリが陥落し、当時のクルタナガラ王も殺害される。この時、王の娘婿のウィジャヤは反乱軍と戦っていたが、王都から脱出し、後にプランタス川のデルタ地帯に拠点を築いた。そこに生えていた柑橘系の果物「マジャ」の実が、パヒト(ジャワ語で苦い)だったことから、その場所をマジャパヒトと名付けた(『パララトン』)。

 1293年(永仁元年)、元軍がついに東部ジャワ北岸のトゥバンに上陸した。ウィジャヤは元軍に降伏すると、反乱勢力の中心都市クディリを共同作戦で陥落させた。さらにウィジャヤは元軍を攻撃し、本国に撤退させることに成功する。

 翌年の1294年(永仁二年)、ウィジャヤは即位し、マジャパヒト王国*3初代の王となった。

王国の隆盛

 元軍を退去させたマジャパヒト王国だったが、一転して1295年(永仁三年)には朝貢使節を送った。『元史』によれば、1332年(正慶元年)までの37年間に10回の朝貢を行っている。マジャパヒト王国が、元朝との国家間交易を重視したためともいわれる。

 元朝末期の1349年(貞和五年)に汪太淵が完成させた『島夷誌略』によれば、ジャワ(爪哇)は、人口が稠密であり、米穀が豊穣なことは他国の倍であったとされる。また文書行政が行われ、貨幣経済が浸透*4していたことも描写されている。

 産物は塩、胡椒、極細の竪耐色印布、綿羊、鸚鵡が挙げられている。交易のためにジャワに持ち込むべき商品としては、硝珠(ビーズ)、金銀、青緞、色柄の絹、青白花椀、鉄器などを勧めている。

 14世紀中頃、マジャパヒト王国は積極的に積極的な拡張政策を採り、現在のインドネシアの全域とマレー半島の一部にまで大きな影響力*5を及ぼした。

 この時期のジャワには外国からも多くの人々が訪れたという。マジャパヒト王国の宮廷詩人プラパンチャが1365年(貞治四年)に完成させた詩篇『デーシャワルナナ』には、彼らの出身地としてインド、ベンガルカンボジア、シャム、ベトナム、チャンパ、中国の名が列挙されている。

明朝・琉球との交流

 1368年(応安元年)に中国で明朝が成立すると、マジャパヒト王国はただちに朝貢使節を送った。元朝の時代と同じく、明朝とも国家間の関係維持に注力した。

 1405年(応永十二年)、福建を出発した鄭和の第一次遠征隊は、チャンパ―に寄港後、翌年にジャワに到着した。この時、王国内で内戦が起こり、その巻き添えとなって鄭和の部下約170名が王の軍隊によって殺害された。王は明朝の永楽帝に謝罪し、以後も定期的な朝貢が行われた。

 また明朝と同時期に海洋国家として台頭した琉球王国は、1430年(永享二年)から1442年(嘉吉二年)の間に、4回にわたってジャワへ使節を送っている(『歴代宝案』)。

イスラーム勢力の台頭と王国の滅亡

 15世紀中頃、明朝は経済的負担から、朝貢の制限に転じる。マジャパヒト王国朝貢は、1465年(寛正六年)が最後となった。時代は朝貢貿易から民間交易へとシフトし、東南アジア海域では、新興港市国家マラッカが台頭していた。

 これまで東部ジャワは、ニクズクや白檀香など、マルク諸島やティモール島の産物の集散地として機能していた。しかし、琉球王国を含め、多くの商人はマラッカへと向かうようになった*6

 16世紀初頭、マジャパヒト王国は滅亡した。デマ(ドゥマク)王国を中心としたイスラーム諸国の軍勢によって滅ぼされたと推測されている。残存勢力は、バリ島へと移動したといわれる。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

  • 青山亨「シンガサリ=マジャパヒト王国」(『岩波講座 東南アジア史 第2巻 東南アジア古代国家の成立と展開』 株式会社岩波書店 2001)
  • 布野修司 『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成―コスモスとしてのカンポン』 2021

*1:鄭和の大航海(「西洋下り」)に同行した人物として知られる。

*2:1歩=1.5mとすると、1辺=75m四方程度の広さとなる。

*3:マジャパヒト王国は、シンガサリ王国の直接的な後継者であり、両者を合わせてシンガサリ=マジャパヒト王国とも呼称される。

*4:銅銭を用いるが、一般には銀、錫、鍮、銅を混ぜて鋳造した巻貝大のものを「銀銭」と名付けて、銅銭を計量するのに使用している、とする。

*5:『明史』蘇禄伝によると、1368年ごろ、蘇禄(スールー)の海賊がブルネイに侵攻して略奪を働いたが、ジャワが援軍を派遣したので退却した、という。また1370年に明朝の洪武帝が、ブルネイ使節を送って朝貢を勧めたが、ジャワの報復を恐れたブルネイの王は、承諾しなかった、としている。

*6:16世紀初頭に東南アジアを訪れたポルトガルピレスは、『東方諸国紀』の中で、北西インドのクジャラート地方の商人たちは、かつてはスマトラ島南岸からスンダ海峡を抜けて東部ジャワのグレシクに赴き、そこでマルク諸島、バンダ諸島、ティモール諸島からの物産を入手して持ち帰り、大きな利益を得ていたが、マラッカが交易基地として台頭したために、この航路を放棄するに至った、と記している。