戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マラケシュ Marrakech

 北西アフリカのモロッコ王国中南部にあったオアシス都市。高アトラス山脈の北麓に位置する。11世紀にムラービド朝によって築かれて以後、王朝の首都として、またサハラ交易の拠点として繁栄した。

ムラービド朝の成立

 10世紀のマグリブ(北西アフリカ)は、イフリーキヤ*1ファーティマ朝とアンダルス(イスラーム治世下のイベリア半島)の後ウマイヤ朝という強力な国家の係争地となっており、各地に土着のベルベル*2勢力が割拠する状態となっていた。

 10世紀後半以降、これらベルベル諸部族にイスラムスンナ派の、特にマーリク派法学の教えが徐々に広まっていったらしい。1038年頃、サハラ砂漠西部でラクダの遊牧を生業としていたベルベル諸部族が、精神的・宗教的な指導者としてマーリク派法学者イブン・ヤースィーンを招致。このヤースィーンを中心にムラービド朝*3が興る。

 1059年(康平二年)にヤースィーンが没すると、ラムトゥーナ族の軍事指導者であったアブー・バクル・ブン・ウマルが新たな指導者なり、マグリブ地域を北上しながら勢力を拡大した。こうした中で王朝の都としてマラケシュは建設されたらしい。はっきりした史料は無いが、1070年(延久二年)頃、アブー・バクル・ブン・ウマルが土地の選定と都市建設に着手し、彼の跡を継いだ従兄弟のユースフ・ブン・ターシュフィーン以降の君主が実際の建設と都市機能の整備を担ったと考えられている。

都市機能の整備

 アブー・バクル・ブン・ウマルは、マグリブにやってきた当初はアグマートの町に駐屯していたが、人口流入によって手狭となったため、新な駐屯地となる場所(後にマラケシュ)を選定。カスル・アルハジャル(石の城)という名の君主の居所と宝物庫、武器などの貯蔵庫が一体となった城砦を建設し、自らも建設作業に従事したという。カスル・アルハジャルはその名の通り、石材と赤土でできていた。

 次代の君主ユースフ・ブン・ターシュフィーンは、マラケシュ建設事業を引き継ぎ、さらにカスル・アルハジャルと町の東側を流れるイシル川との間に大モスクを建設した。この時代はまだ城壁が築かれていなかったので、当時のマラケシュは、カスルと大通り、そしてモスクのみで町の中心部が構成される簡素で開放型の町割をしていたとみられている。

 つづくアリー・ブン・ユースフ(在位1106–1143年)は、マラケシュの開発に注力。特にカスル・アルハジャルや市内に水を供給するためハッターラという地下水路を用いた灌漑システムを整えた。また、1120年代には大モスクを改築し、その付近に石とレンガでできた水利施設を建設した。これが、今日まで伝わる数少ないムラービド朝期の建造物であるクッバ・アルバアディイーン(バルディイーン)であるという*4

 1090年以降、ムラービド朝はアンダルスを支配下に置いたが、域内のキリスト教徒が北方のキリスト教諸国と内通。またマグリブで台頭したムワッヒド勢力*5が、1120年代後半にマラケシュ攻撃を開始していた*6。こうした中で1126年(大治元年)頃、君主アリー・ブン・ユースフによりマラケシュをはじめとする諸都市に城壁が建設された*7

 このようにアリー・ブン・ユースフの時代、マラケシュは灌漑設備など基本的な都市機能が備えられ、町の規模も大きくなった。この時期、少なくとも10万の炉床がったともされている。

サハラ交易

 ムラービド朝の母体となったサンハージャ系ベルベル諸部族は、サハラ交易に携わる遊牧民であった。ムラービド朝は西アフリカに進出し、1076年(承保三年)頃にガーナ王国の首都クンビ・サレーを陥して同国を従属させた。この征服により、ガーナの君主やその周辺諸国の君主がイスラームに改宗。ムラービド朝の伸張によって、西サハラの交易路の重要性も高まった。

 特にマラケシュは、サハラ交易におけるアトラス越えルートの基点として位置づけられた。サハラ交易により、マグリブやアンダルスの手工業製品やサハラ砂漠の岩塩が、ニジェール川上流で産出される金がキャラバン隊を介して取引された。ムラービド朝は交易路を支配・保護し、キャラバン隊から税を徴収して利益をあげたと考えられている。また交易路の支配により、大量の金がもたらされ、これによりムラービド朝以降のモロッコでは金貨中心の経済政策への展開したという。

 こうした交易を通じて、マラケシュには交易品や物品が行き来すると同時に、製造業者、商人、隊商なども町に流入して人口が増加*8したほか、商店、倉庫、隊商宿なども建設され、都市化が促された。

 さらに、イフリーキヤやアンダルスなどから知識人や文化が入ってくることで、学問文化の中心地ともなっていった。このような動きの中でアンダルス様式の美術・建築といった物質文化も流入し、それを受けて独自の文化や様式が形成された。

 このようにしてマラケシュでは、ベルベル的要素とアンダルスおよびアラブ的要素、サハラ的要素が混じり合った文化が繁栄したといわれる。

ムワッヒド朝による町の開発

 アリー・ブン・ユースフが1143年(康治元年)に没すると、その子ターシュフィーン・ブン・アリーが即位。しかしターシュフィーンも1145年(久安元年)に没し、後継者争いが生じる事態となった。1147年(久安三年)、ムワッヒド軍によりマラケシュが陥落し、ムラービト朝は崩壊した。このマラケシュ征服の際、ムワッヒド軍はドゥッカーラ門、ダッバーギーン門、アグマート門などから市中に突入しており、現在も用いられている諸門がこの時代に既に存在していたことがうかがえる。

 マラケシュムワッヒド朝の下でも王朝の首都となり、都市機能の整備が進んだ*9ムワッヒド朝初代カリフのアブド・アルムウミンは、ムラービド朝のカスル・アルハジャルの場所に新しい大モスクと宮殿を建設し、屋根付きの通路で両者を繋いだ。

 さらに数年後、アブド・アルムウミンはこのモスクに隣接して新たなモスクを建設。さらに二つのモスクを繋ぐ部分にミナレット(礼拝を呼びかける塔)を建設した。このモスクはクトゥビーヤと呼ばれ、77メートルの高さを誇るミナレットとともに、現在でもマラケシュの旧市街のシンボルとなっている。

 また、アブド・アルムウミンはマラケシュ郊外に果樹園を建設した。この果樹園には、近郊のアグマートから引水して池が付設された*10ムワッヒド朝は同様の果樹園や庭園をしばしば建設したが、広大な貯水地を持つメナラ庭園もその一つである。メナラ庭園は、軍に供給する食糧を生産する果樹園、君主やその家族の居所、軍の駐屯地の役割を果たしたとされる。

 その後もマラケシュの都市開発は続けられた。第3代カリフのヤアクーブ・マンスール(在位1184ー1199)は、マラケシュに砦と宮殿が複合したカスバ(城砦)を建設し、このカスバの正面玄関にアグノウ門を配した。1195年(建久六年)には大モスクも建設され、マラケシュにおける政治の中心地となった*11

マリーン朝時代のマラケシュ

 12世紀末頃に勃興したマリーン朝は、ムワッヒド朝と争いながら次第に勢力を拡大。1261年(弘長元年)頃にマラケシュを攻撃し、1269年(文永六年)に支配下に置いたが、王朝の首都はマラケシュではなくモロッコ北部の都市ファース(フェズ)とした。

 14世紀後半、マーリン朝時代のマラケシュをモロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータが訪れている。キリスト教勢力との聖国に参加する為、アンダルスに赴いていたバットゥータは、南アンダルスの中心都市グラナダからマラガ、ルンダを経てジブラルタルに至り、そこから海峡を船で渡ってセウタから大西洋岸のアスィーラーに行き、そこに数ヶ月滞在した後、南下してサレを経由してマラケシュに到着した。

 バットゥータはマラケシュについて、以下のように記述している。

そこは諸都市の中でも最高に華麗な町で、広々とした都市空間、広大な幾つもの地区と多くの秀逸な品々(豊かな生産物)がある。そこには、荘重な幾つものモスク、例えば「クトゥビーイーン・モスク」の名で知られる最重要なモスクがある。そのモスクには、高くそびえる見事なミナレットが一つあり、私もその上に登ってみたが、そこから町全体が一望のもとに見渡せた。

しかしすでに、荒廃がマラケシュの町を覆い尽くしており、私がそこと比較できたのは唯一、バグダードだけであった。否、バグダードにある市場の方がずっと素晴らしいようにも思えた。

 バットゥータは、ムワッヒド朝時代に建設されたモスク(クトゥビーヤ)を訪れ、ミナレットにも登っている。一方でイラクバグダードにも増して、すでに荒廃の影が忍び寄っていることを感じている。

 またマラケシュには、マーリン朝スルタンのアブー・アルハサン・アリーによって「アリー・ブン・ユースフのマドラサ(高等学院)」が建設されていた。バットゥータも「立地の良さと建築の堅固なことにおいて異彩を放つ素晴らしい一つのマドラサ」と言及している。

 この時、マラケシュの町には、ちょうどマリーン朝スルタンのアブー・イナーン・ファーリスが滞在していた。しばらくしてから、バットゥータはスルタンの行列に同行して町を出発し、ミクナース(メクネス)経由でマリーン朝の首都ファース(フェズ)に戻った。

サアド朝の勃興

 15世紀初頭、マリーン朝は衰退をはじめる。同時にポルトガルが、セウタやアガディールなどモロッコの大西洋岸の主要な港町を次々に支配下におさめ、サハラ交易への参入も図るようになる。

 これに対抗してモロッコではサアド朝が勃興し、1541年(天文十年)にポルトガルからアガディールを奪回。その前後にマラケシュ、ファース(フェズ)を攻略した。

 マラケシュはサアド朝の首都となり、再び繁栄の時期を迎える。16世紀半ば、スルタン=マウラーイ・アブド・アッラーの治世では、イブン・バットゥータも訪れた「アリー・ブン・ユースフのマドラサ(高等学院)」の改築も行われている。

 1591年(天正十九年)、サアド朝はサハラ砂漠を越えて西アフリカのソンガイ帝国に遠征。火縄銃と騎兵で武装したサアド朝軍は、トンブクトゥとガオを占領し、同帝国を滅亡へと追い込んだ。ソンガイ征服により、西アフリカからの金の流入が容易となり、また多くの高価な略奪品がマラケシュへ持ち帰られた。この利益により、マラケシュには美しい宮殿が建てられたという。

 

参考文献

マラケシュ Stefan BernsmannによるPixabayからの画像

アグノウ門 Marco FedermannによるPixabayからの画像

 

*1:北アフリカの中西部。およそ現在のチュニジアからアルジェリアの東部あたりを指す。

*2:北西アフリカの先住民で、ベルベル語母語として話す人々を指す。この名称はラテン語のバルバロス(ローマ世界の外に住む非文明人の意)に由来するとされる。

*3:ヤースィーンの教えに従った人々はムラービトゥーン(修道場・砦に集う者)と呼ばれ、これが王朝名となった。

*4:設立年代や用途についても諸説あるが、1125年(天治二年)にアリー・ブン・ユースフが建設した「泉モスク」と呼ばれる大モスクの浄めの水場の一部をなす泉か水盤だろうと考えられている。

*5:12世紀前半にイブン・トゥーマルトにより創始された勢力。1124年(天治元年)に高アトラスのティンマルに拠点を移し、ムラービド朝政権の打倒を目指した。

*6:ムワッヒド勢力によるマラケシュ攻撃はムラービド朝軍によって防がれており、1130年のブハイラの戦いで、ムワッヒド軍は司令官のほか多くが亡くなる大敗を喫した。

*7:イブン・ルシュドをはじめとするマブリブ、アンダルスの法学者が城壁の建設を君主アリー・ブン・ユースフに進言したという。

*8:こうした人工流入や人口増加によって居住空間の不足が問題化するほどであったという。

*9:一方で、ムワッヒド朝マラケシュで新政権を敷くにあたり、前王朝の多くの建物を破壊したとされている。

*10:こうした地下水路と灌漑システムの整備は、もともと前王朝のアリー・ブン・ユースフが始めたものだった。

*11:この結果、クトゥビーヤは大モスクの地位を失い、最初に建設されたモスクは荒廃して2番目に建設されたモスクだけが残り、今日見られる形となったとされている