戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

シフル ash-Shihr

 イエメン南東部の乾燥地帯、ハドラマウト地方の港町。9世紀の言語学者イブン・ハビーブによれば、アデンやサナアにならぶ南アラビアの定期市が開催される町の一つだったという。すでにジャーヒリーヤ時代イスラム以前の時代)から貿易商人や遊牧民たちにはよく知られていた。

シフル周辺の特産物

 シフルは、ハラドマウトやその周辺地域の特産物の輸出港 として、インド洋貿易で栄えた。10世紀の地理学者イスタフリーは「ここ(シフル)から乳香*1が諸地方へと輸出される」と記述。中国の南宋時代の『諸蕃志』にも、乳香は麻囉抹(ミルバート)、志曷(シフル)、奴発(ズファール)の三国の深山幽谷中から、産出すると記されている。

 13世紀の地理学者ヤークートは、竜涎香の極上品がシフルで採集されると述べている。他にも肥料や飼料として知られた干魚の名産地として、あるいは優良な乗用ラクダの飼育地としても広く知られていた。

 16世紀、ポルトガル人のドゥアルテ・バルボザは、シフルで大型の良馬が得られ、インドでは高値で取引される、としている。

インド洋貿易の国際港

 1279年(弘安二年)、イエメンのラスール朝ハドラマウトに遠征。シフルは同王朝にとって、インド洋貿易の管理、統制上、重要な貿易港の一つとなった。

 15世紀初頭に編纂されたフサイニーの『アデン港書記官提要』には、シフルで扱われていた課税対象品目として、竜涎香、竜脳、真珠、インド人踊り子の女奴隷たち、野生の麝香猫などが挙げられている。さまざまな貿易品が、インド洋海域の各地からシフルヘもたらされていたことが分かる。

海を渡る人々

 17世紀、シッリーが著した『水場(アラウィー家の高貴なるサイイドたちの功績における渇きを癒す水場)』には、ハドラマウトのサイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)たちの伝がまとめられている。

 16世紀から17世紀にかけて、彼らの活動は広範囲におよんだ。メッカ、メディナの両聖地や紅海沿岸、アデン、タイズなどのイエメン諸都市、モガディシュ、モンバサなどの東アフリカ、さらに東南アジアのスマトラ島アチェといったインド洋海域の各地方へと渡海している。シフルは、その窓口として機能した。

17世紀前半のシフルの貿易

 17世紀前半、オランダ東インド会社の貿易商人ファン・デン・ブルックが著した『航海日誌』には、アデンやモカなどの南アラビアの港に関する記述とともに、シフルについての具体的な描写がなされている。ここからシフルとインド西岸、東アフリカ沿岸との活発な貿易の状況をうかがうことができる。

 これによれば、町の収入の大部分は、居住する外国人たちや、さまざまな地方からやって来る者たちが行う活発な貿易によるものであったという。特にバニヤ*2が、主要な地位を占めていた。彼らは、2〜4月にかけてゴアやカンバーヤなどインドの諸港から船が来航。これらの船には、亜麻布や木綿製の衣服、平織りの白木綿布、ターバン、インディゴ織りなどが積載されていた。

  またキシン(シフル東方の港)やシフルの人々は、コモロ諸島マダガスカル、マリンディなどの東アフリカ沿岸に船を送り、米やキビ、黒人奴隷、竜涎香を持ち帰ったとしている。

 同じく17世紀のイエメンの歴史家ジャルムージーの『イマーム=ムタワッキル伝』には、シフルに500艘以上の漁猟用小型船が係留してあり、300人程のバニヤ商人が居留していたことが記されている。

ザイド派イマーム政権とシフル

 上イエメンのザイド派イマーム政権は17世紀中頃、ハドラマウトへの遠征を敢行。その目的はシフルの掌握および貿易収入の安定的確保だったといわれる。1657年(明暦三年)6月のハドラマウト駐留の特使のイマーム=ムタワッキル宛書簡からは、シフルでインド人商人の船荷への関税、バニヤ商人への賦課が徴収され、ムタワッキルのもとに送られていたことが分かる。

参考文献

  • 栗山保之 『海と共にある歴史 イエメン海上交流史の研究』 中央大学出版部 2012

*1:ズファール地方山岳部は乳香樹が繁茂することで知られた。

*2:インド西岸のクジャラート地方出身のヒンドゥージャイナ教徒商人の総称たち