広州湾沖にあった浪白澳島の港町。上川(サンシャン)とともにポルトガル人の交易の拠点となった。浪白澳(ランパカウ)の地名は、1537年(天文六年)成立のガスパル・ヴィエガスの地図に「ラブパ(Labupa)」もしくは「ラブプス(Labups)」としてみえる。
東南アジア・中国・日本の結節点
ポルトガル人のフェルナン・メンデス・ピントは、コーチシナからマラッカに戻る際、サンシャン(上川)でマラッカ行きの船を見つけられず、ランパカウ(浪白澳)に移動。同港には、マレー半島のパタニやルゴールから来たジャンク船2隻が停泊していたと記している(『東洋遍歴記』)。
ピントらは偶然ランパカウに入港してきた海賊船に同乗し、旅を続けようとした。しかし洋上で別の海賊に襲われたうえ、大嵐に遭ってしまい、琉球王国の島を経由して日本の種子島にたどり着いたという(『東洋遍歴記』)。
中国人との交易地
1555年(天文二十四年)、ピントは、パタニから日本の豊後府内への航海の途中、七月二十日にサンシャン(上川)に寄港し、八月三日にランパカウ(浪白澳)へ立ち寄る。11月12日付の書簡で、そこはナヴィオ船の交易地だと説明している。
『東洋遍歴記』でも、当時ポルトガル人はランパカウで中国人と交易していたとし、それはマカオがポルトガル人に提供される1557年(弘治三年)まで続いたとする。一方で、以前のように産物が流通していなかったために、その航海期に日本行きの船がなかったともしている。
同年秋、ドゥアルテ・ダ・ガマのナウ船が日本の平戸から豊富な荷を積んでランパカウ(浪白澳)に帰港。ピント一行の滞在時、ランパカウ(浪白澳)には有力なポルトガル海商であるディオゴ・ペレイラやフランシスコ・トスカーノ、アントニオ・ペレイラが集まっていた。ディオゴはこの時、東南アジア・スンダ列島から来航しており、その船には8人の日本人が乗り組んでいたという。
ポルトガル人の越冬地
ピントに同行していたイエズス会インド準管区長メルチオール・ヌネス・バレトは、中国のポルトガル人とナヴィオ船の多くは、日本への渡航を意図しており、5月の季節風の時期を待ち、中国の海岸で越冬すると書簡に記している。
ランパカウ(浪白澳)での越冬中、バレトらは越冬するポルトガル人等300人の為に教会を建設。インドや東南アジア出身の従僕をキリスト教に改宗し、ポルトガル人たちが連れていた外国人の女奴隷(マンセーバ)たちと別れさせ、或いは結婚させた。
同時に、明軍による双嶼討伐で捕らえられたポルトガル人の解放交渉のため、商人ルイス・デ・アルメイダらとともに広州へ交渉に出向いている。アルメイダは明朝官憲からの信頼が厚いことにより、特別にバレトに同行することが許されたという。交渉の結果、数名のポルトガル人虜囚が1500パルダウ(1000両に相当)で身請けされ、解放された。保釈金は1555年当時、浪白澳周辺にいたポルトガル人たちから集められたものであった。
翌1556年(弘治二年)六月、ピント、バレトら一行*1は日本の豊後府内に向けてランパカウ(浪白澳)を出帆した。
関連人物
参考文献
- 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
- 岡美穂子 「南蛮貿易前史ーマラッカ以東ポルトガル人の私貿易活動」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
- 岡美穂子 「南蛮貿易の起源ー個人海商たちの海」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
- メンデス・ピント(岡村多希子 翻訳) 『東洋遍歴記 2 (東洋文庫0371) 』 平凡社 1980
- メンデス・ピント(岡村多希子 翻訳) 『東洋遍歴記 3 (東洋文庫0373) 』 平凡社 1980
- 『日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 原文編之三』 東京大学史料編纂所