戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ランサロッテ・ペレイラ Lançarote Pereira

 中国浙江沖の双嶼を拠点としたポルトガル人海商。フルネームはランサロッテ・ペレイラ・デ・アブリュウ。中国文献では「浪沙囉的嗶咧」としてみえる。双嶼のポルトガル人有力者の一人であり、明軍による双嶼攻撃の要因を作ったとされる。

インドに渡る

 ランサロッテは、ポルトガル北部とスペインのガリシア地方の国境に位置する町、ポンテ・デ・リマ出身のフィダルゴ(貴族)であったとされる(メンデス・ピント『東洋遍歴記』)。

 1538年(天文七年)、ポルトガル艦隊によるインド・クジャラートのディウ攻略で功績を上げ、その恩賞として、アフリカ東岸のソファラ(現モザンビーク)ーメリンデ(現ケニア)間航海権1回分を授与された。後にランサロッテと深く関わるディオゴペレイラも、同時期にインド方面で兵士としての経験があり、両者はそこで知り合っていた可能性が高いという。

 なお、1542年(天文十一年)にインドのゴアへ向けてリスボンを出港したフランシスコ・ザビエルモザンビークからの書簡にランサロッテの名を見ることができる。

双嶼の顔役

 その後、ランサロッテは中国に移動。浙江省寧波府の沖に形成された密貿易港・双嶼を拠点とした。フェルナン・メンデス・ピントは著書『東洋遍歴記』の中で双嶼(リャンポー)には4人のポルトガル人の顔役がいたと記しており、その一人がランサロッテ・ペレイラだった。他の3名はマテウス・デ・ブリト、ジェロニモ・ド・レゴ、トリスタン・デ・ガであり、ランサロッテを含めた4人のうち、最も主要な位置にある人物として描かれるのはマテウス・デ・ブリトであった。

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 ピントの『東洋遍歴記』には、中国においてランサロッテが起こした事件が記されている。ある時*1、ランサロッテは怪しげな中国人に劣悪な商品で数千クルザードを貸したが、彼らは商品とともに姿をくらました。ランサロッテはこの損害の仕返しとして、不逞のポルトガル人15〜20人を集めて無関係な近隣の村を襲ったという。

 この犯罪に対し、中国明朝は6万人が乗り組む300隻のジャンク船、80隻の橈漕のヴァンカン船から成る艦隊を編成し、アイタオ(海道副使)とともに直ちに派遣。この艦隊がある朝、「不幸なポルトガル人の町」(=双嶼)を襲撃したとし、ランサロッテの行為が明軍による双嶼討伐につながったことを描写している。

 一方で中国の文献にも上記と同一とみられる事件がみえる。すなわち、鄭舜功撰『日本一鑑』「窮河話海」の「海市」に、ポルトガル人をかつて双嶼に導いた許棟兄弟と「番人」(外国人)との間にトラブルが生じ、「番人」が中国の村を襲い掠奪を働いた経緯が記されている。許棟(許二)・許梓(許四)の兄弟が「番人」の貨物を償却しなかったことに起因するという。『東洋遍歴記』との記述との類似性から、この「番人」はランサロッテ・ペレイラであった可能性が高いとされる。

 なお『日本一鑑』は、この騒動が「倭患始生」と朱紈による双嶼平定の起こりとしている。

双嶼壊滅と明軍との戦い

 1548年(天文十七年)年四月、明朝艦隊の攻撃により双嶼は壊滅。これを逃れたランサロッテらポルトガル人の船団は、同年五月に福建の浯嶼に至った。この船団は大船5隻と哨戒船4隻からなり、大船には強力な仏郎機砲が搭載されていたという。九月には、双嶼の密貿易集団の頭目の一人だった許棟の船団が、温州近海で明軍の攻撃を逃れて南下し、浯嶼に合流した(『籌海図編』巻5「浙江倭変紀」、『甓餘雑集』「六報閩海捷音事」)。

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 ランサロッテらポルトガル私貿易商人のリーダーであったディオゴペレイラの船団も、インドから中国沿岸部に到達し、七月には広東方面から漳州湾の海門嶼に来航していた(「六報閩海捷音事」)。彼らも浯嶼に入ったとみられる。

 十月、浯嶼に集結した船団は明軍の包囲を受ける。十一月九日、明軍の攻撃が開始されたが、ポルトガル人や許棟の船団は、「大銃三十余個・中小の鳥銃」を多数放ち、山觜上から射石砲で砲撃するなどして明軍を撃退している(「六報閩海捷音事」)。

 1548年(天文十六年)末まで、ポルトガル船団は浯嶼において明軍と対峙しつづけた。その後、ディオゴペレイラは冬季の季節風によって東南アジアのマラッカに帰航。残った積荷は2隻のジャンク船に移され、ランサロッテはフェルナン・ボルジェスととも船長に任じられ*2、浯嶼で越冬することとなった。

 翌1549年(天文十八年)正月、浯嶼に残留していたポルトガル船団は、明軍の包囲を破って、福建南端の銅山島へと南下。しかし二月二十日、同島の走馬溪に停泊していたところ、福建海道副使・柯喬と福建都指揮僉事・盧鏜が率いる明軍の攻撃を受ける。ポルトガル人は火縄銃などを放って反撃したが、ジャンク船2隻、哨戒船1隻、パラオ船4隻からなる彼らの船団は、明軍によって包囲・撃破された。

 走馬溪の海戦によって、ランサロッテ、フェルナン・ボルジェスら3名のポルトガル人が捕縛された。他に16名の黒人、46名の「白黒異形、身材長大」の異民族ら多くの乗員が捕虜となったという。(「六報閩海捷音事」)。

偽王の行方

 『甓餘雑集』には、嘉靖二十八年(1549)三月二十日の記事に下記のようにある。

佛狼機國王三名を生擒す。一名は矮王、審名すらく浪沙囉的嗶咧、麻六國王子に係る。一名は小王、審名すらく佛南波ニ者、麻六甲國王孫に係る。一名は二王、審名すらく兀亮咧咧と名のる。麻六甲國王嫡弟に係る

 三名の「佛狼機國王」を捕虜としたとする。「浪沙囉的嗶咧」はランサロッテ・ペレイラ、「佛南波ニ者」はフェルナン・ボルジェス、「兀亮咧咧」はガリオッテ・ペレイラ*3に比定されている。

 また三名の係累とされる「麻六甲國王」(マラッカ国王)とは、マラッカを拠点にポルトガル私貿易商人らを率いたディオゴペレイラであるともされる。ランサロッテらはディオゴの真の血縁者ではなかったと考えられているが、ディオゴの集団内で片腕として信用された人物であったため、このように記述されたとみられる。

 なぜランサロッテらが「王」とされたかについて、1556年(弘治二年)に広東省付近に数ヶ月滞在したポルトガル人のドミニコ会ガスパル・ダ・クルスが言及している。すなわち、総司令官のルティシ(盧鏜)が自らの功績を強調するために、捕らえたポルトガル人のうち、主だったものに強制的に王を名乗らせたとする。4人の王*4の捕縛は大々的に町々に伝えられ、彼らは檻に入れられ、民衆に晒されながら護送された。

 この後、ランサロッテの消息は不明となる。一方で、ランサロッテとともに「佛狼機國王」とされたガリオッテ・ペレイラは1553年(天文二十二年)に出獄しており、1549年(天文十八年)に漳州で捕えられていたマテウス・デ・ブリトも1555年(弘治元年)に広州で釈放されている。

 1555年は、他にも数名のポルトガル人が解放されているが、そこにランサロッテおよびフェルナン・ボルジェスの名は見えない。未だ解放されずにいたのか、この時点ですでに死亡していたと考えられる。

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参考文献

アジア図(メルカトール・ホンディウス) 
出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/
※双嶼(Lampo)周辺を切り取り加工しています

*1:『東洋遍歴記』では1542年に起こったとされているが、同書の年代記述は事実とは一致しないことは、すでに多くの研究者から指摘されているとのこと。

*2:浯嶼に残ったポルトガル船団に所属して捕虜となり、1555年に解放されたアロンソ・ラミレスが浪白澳から記した書簡に、残された2隻のジャンク船の船長がそれぞれランサロッテ・ペレイラとフェルナン・ボルジェスであったことが記されている。

*3:ガリオッテは釈放された後、『中国幽囚記』を著すことになる。

*4:4人のうち3人は、ランサロッテ・ペレイラ、フェルナン・ボルジェスガリオッテ・ペレイラと考えられる。もう一人は、ランサロッテとともに双嶼の顔役だったマテウス・デ・ブリトの可能性が指摘されている。