戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

袁 璡 えん しん

 中国明朝の辺将。寧波衛指揮使。1523年(大永三年)五月の寧波事件において、大内氏の遣明使節の捕虜となり、日本に連れ去られた。事件後、袁璡の本国送還が日明間の交渉における懸案事項の一つとなる。

寧波事件

 1523年(大永三年)四月、日本から大内氏を派遣主体とする遣明使節300名余が寧波に到着。それから数日遅れて同じく日本の細川氏の遣明使節100名余を乗せた遣明船1隻が寧波に入港した。

 両使節に対し、寧波の明朝当局は平等に扱わなかった。進貢品の臨検順や宴会での席次において細川方の遣明使節を優遇した。細川方遣明使節の副使・宋素卿(朱縞)が市舶太監の頼恩に賄賂を贈った為ともされる。このことを大内方使節は激しく恨み、寧波事件の引き金となった。

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 五月一日、大内方遣明使節が蜂起。官庫を襲い、預けてあった貢納品と武器を強奪し、刀剣と甲冑で武装して東南の城門に立て籠った。

 五月三日の明け方、大内方は細川方使節の正使・鸞岡瑞佐を含む使節人員十数名を門外の河岸で斬首。さらに宋素卿を探して府城の北門に回り込むと、嘉賓堂(細川方使節の宿所)および細川方の船を貢納品ごと焼き払った(「宋素卿伝」)。

 一方で寧波の府と衛は、宋素卿ら細川方の70余名を紹興方面に逃していた。しかし寧波衛指揮使であった袁璡は、宋素卿追跡を図る大内方に捕らえられてしまう。

 大内方は袁璡に嚮導(案内)を強要し、さらに鹵獲した軍船を駆って宋素卿らの行方を追跡した。大内方は紹興府にまで押し寄せたが、紹興府城が防備を固めていたことから、寧波に引き返した。

 その後、大内方は五月六日には定海関の守備に当たっていた備倭総督・劉錦を、翌七日には衛百戸の劉恩を戦死させ、そのまま東方海上に去ったという(『日本考略』)。袁璡は捕虜となったまま、大内方に連れ去られてしまった。

事件後の日明交渉

 事件から2年後の1525年(大永五年)四月、朝鮮王廷に国王源義晴(足利義晴)名義の書簡が届く。その内容は、先年の事件における細川方の非を訴え、拉致した袁璡を中国に送還したいので仲介してほしいと要請するものであった。これは大内氏が名義を偽って派遣したもので、朝鮮側は議論の末に要請を拒絶している(朝鮮『中宗実録』二十年四月乙巳条、六月甲寅条)。

 一方で同年六月、明朝も琉球から朝貢のため渡明した鄭縄に対し、日本宛の勅諭を託している。その内容は、寧波事件の元凶である謙道宗設(大内方遣明使節の正使だった人物)およびそれを幇助した数人を速やかに捕縛することと、袁璡の送還を命じるものだった(『明実録』嘉靖四年六月己亥条)。

 この勅諭は、琉球国中山王から派遣された禅僧・鶴翁智仙によって、大永七年(1527)に幕府へもたらされた。これに対し、将軍足利義晴管領細川高国は、返書として嘉靖帝へ宛てた上表文と礼部へ宛てた別幅咨文を用意し、智仙に託した。

 義晴・高国らは、礼部宛の別幅咨文の中で、寧波事件に関わった二つの使節のうち、鸞岡瑞佐と宋素卿(朱縞)らは義晴が派遣した使節であり、謙道宗設らの使節は偽物であると主張。さらに事件の元凶である大内義興配下の神代源太郎は既に誅殺し、源太郎が拉致してきた明人(袁璡)は前年すでに帰国の途についたものの、風の影響で船を進めることができずに滞留しており、近日中に明へ到着するであろうことを説明している。

 併せて、明朝に留置されている妙賀や宋素卿ら細川方遣明使節の生存者の釈放、および新しい勘合と金印の下賜も要求している。

 上記の足利義晴細川高国の返書は、琉球を経由して1530年(享禄三年)に明朝へ伝達された。しかし明朝礼部では懐疑的な見方もあり、琉球を通じて日本国王に再度勅諭を降して、改めて謙道宗設の捕縛と袁璡の送還を実行するよう日本へ伝達させ、それが果たされてから日本側の要求を容れるかどうか決定するという提案が採用された。

大内氏の動き

 上記の明朝からの通知は、しかし幕府には届かなかったといわれる。というのも、大永七年(1527)九月、大内義興琉球に対し、今後日明関係に関する事柄は必ず大内氏を通すようにと述べる書状を送っており(『萩藩閥閲録遺漏』巻5の3)、以後の琉球経由での明朝側からの働きかけは幕府に伝わらなかったと推測されている。

 なお、この書状の中で大内義興は、「袁大人」(袁璡)の帰国について、使者の源松都文に巨細申し含んでいるので、よく尋聞してほしいと述べている。大内氏が袁璡の送還について、琉球と何らかの連携をはかっていたことがうかがえる。

 1528年(享禄元年)、明朝に留置されていた妙賀、吉川(吉川出雲守)、静憲ら60人余りが釈放された(『活套』)。同年七月六日に屋久島へ帰り着いたことも記録にみえる(『日本帝皇年代記』)。

 1539年(天文八年)五月、大内義隆(義興の子)を派遣主体とする遣明使節が寧波に入港する。翌年三月、明朝の首都・北京に至った一行は、寧波事件の弁明と事件時に置き去りにしてしまった荷物の返還交渉を行っている。

 明朝側からは、謙道宗設の捕縛・送致と袁璡の送還が行われていないことが指摘され、貨物の返却には難色が示された。これに対し、使節の正使・湖心碩鼎と副使・策彦周良の両名は、謙道宗設は寧波事件の際に斬死しているとし、袁璡は妙賀に随行させて1531年(享禄四年)に送還しようとしたが、途上で大風に遭い漂没したと弁明している(『初渡集』嘉靖十九年四月十六日条)。

 なお使節が寧波において北京への上京許可を待っていた1539年(天文八年)八月十二日、副使・策彦周良のもとに四明の陸明徳という人物が訪ねてきている。周良は彼について「袁指揮(袁璡)之婿也」と日記に記している(『初渡集』嘉靖十八年八月十二日条)。

参考文献

  • 山崎岳 「各論17 寧波の乱(寧波事件)」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 岡本真 「「堺渡唐船」考」(『戦国期日本の対明関係 遣明船と大名・禅僧・商人』 吉川弘文館 2022)
  • 伊藤幸司・岡本弘道・須田牧子・中島楽章・西尾賢隆・橋本雄・山崎岳・米谷均 「妙智院所蔵『初渡集』巻中・翻刻」(中島楽章・伊藤幸司 編 『寧波と博多』 汲古書院 2013)

大日本仏教全書 116 『初渡集』嘉靖十九年四月十六日条
国立国会図書館デジタルコレクション)