戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

朱 縞 しゅ こう

 中国明朝の寧波府鄞県を出身とする明人。字は素卿。宋素卿とも名乗った*1。若くして日本に渡り、細川高国の派遣する遣明使節に関わった。後に寧波事件の中心人物となり、明朝当局に収監された。

生い立ちと日本への渡航

 中国の文献によれば、一説には漆器職人を父にもったといい、また別の所伝では、父親と死に別れて頼るものもなく、歌を学んで遊び暮らしていたともいう。明応五年(1496)、日本の遣明使節随行していた商人・湯四五郎に、実父あるいは叔父の借財の抵当として売り渡されたことで、日本に渡来したと伝えられる。時に17歳であったともされる。

 日本渡航後は、明の宗室を詐称し、「戸部尚書」に取り立てられ、また「国王」の寵愛を受けてその娘を娶り、王の庶子を助けて嫡統を奪ったとされる(『嘉靖寧波府志』巻22、『日本一鑑・窮話河海』巻7、厳従簡『殊域周咨録』巻2、李開先『閒居集』巻9「宋素卿伝」)。

 当時の日本では、明応の政変で京都を追われた足利義材(義伊、義稙)と、それに代わって擁立された足利義澄の両派が、将軍位をめぐって畿内各地で武力衝突を繰り返していた。後述するように、朱縞は前将軍・足利義伊を復権させて京都の政権中枢を占めた細川高国に取り立てられており、中国文献の記述は、ある程度の事実を反映していた可能性がある。

 京都の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』には、明応七年九月十四日の条に、東福寺の了庵桂悟が明人朱縞にまみえ、筆談を交わしたという記事がみえる。了庵は朱縞に贈った詩の中で、彼を「明国の桀」と称し、中華の風教を日本にもたらした当代の朱熹になぞらえており、それなりに立派な風采の人物であったことがうかがわれる。

 『異国出契』所収の永正度遣明使関係文書にも、日本側が朱素卿を「司農卿」に任じて公府に出入りさせたと述べられている。このことから、彼が将軍に近侍する何らかの身分を与えられていたものと考えられている。

永正の遣明使節

 永正二年(1506)、了庵桂悟は81歳という高齢ながら遣明使の正使に任命された。永正七年正月、了庵は長門国赤間関より2隻の大内船と1隻の細川船からなる船団を率いて寧波を目指したが、逆風に阻まれ、渡海は翌年に持ち越されることになった。

 この間、京都では将軍足利義澄に代わって足利義伊(のち義稙)が将軍位に復権。新政権で実権を握った管領細川高国は、朱縞を綱司とした遣明船一艘の追加派遣を企てた。四合目の勘合を携えた朱縞は、堺を出航し、大内氏の領地を避けて南九州から東シナ海を渡り、了庵一行に先立って中国沿岸に到達した。

 この時、宋素卿(朱縞)は明朝から日本国王源義澄の使臣と認められ、飛魚服(ひぎょふく)の下賜を受けた。これは外国の陪臣としては極めて異例の待遇であったという(『明実録』正徳五年二月己丑条)。

 さらに、それから2ヶ月後、朱縞が故郷の寧波にあった叔父の朱澄と金銀を贈答したという事実が暴露され、密航者としての経歴が問題となった。しかし、礼部の審議の結果、法理上は処罰するべきだが、すでに一国の使臣という身分をもつ以上、温情と威令を説いて送還するのが妥当であろうと結論づけられた(『明実録』正徳五年四月庚子条)*2

寧波事件の前夜

 永正十五年(1518)、細川高国とともに将軍足利義稙を支えてきた大内義興が、本国である周防国に帰還する。高国は遅くとも永正十六年(1519)には、鸞岡瑞佐を正使とする遣明使の派遣を計画しており、翌年には瑞佐が渡海の準備のため、堺から日向国油津に赴いている。

 なお永正十八年(1521)、将軍義稙が高国の排除を期して京都を出奔。同年末に足利義晴(前将軍足利義澄の遺児)が擁立され、高国の実権下に新たな将軍が誕生する。後述のように、遣明船をめぐって細川氏大内氏が中国明朝の領内で武力衝突する事態となった背景には、外交の主体である足利将軍家の分裂があったとされる。

 大永三年(1523)、鸞岡瑞佐を正使、朱縞を副使とする細川氏の遣明船一隻が中国明朝に向けて渡海する。一行は四月二十七日に寧波に入港。天寧寺と寿昌寺に宿を与えられたという。

 一方で、朱縞ら細川方遣明船の入港前日、謙道宗設を正使とする大内氏の遣明使節、総勢300余名が3隻の船に分乗して寧波に到着していた。「宋素卿伝」によれば、大内氏使節一行は、市舶司の嘉賓堂と境清寺に分かれて投宿し、進貢物は官庫に収められた。

寧波事件の発端

 事件の発端は、寧波当局が先に到着していた大内方よりも朱縞ら細川方一行を優遇したことにあったとされる。

 細川方は寧波入港において遅れをとった上、携えてきた勘合は一代前の弘治年間のもので*3、人数も100名余りと、大内方に比べて明らかに劣勢な状態にあった。ところが、当局は貢納品の臨検でも細川方を優先し、歓迎の宴席でも彼らに上席を与えた。このため、席上では激しい罵倒の応酬が交わされたという。

 多くの史書は、これを細川方の副使・宋素卿(朱縞)が市舶太監の頼恩に賄賂を贈った結果とみなしている。一方で、細川方からすれば、この時点で対外的に日本国王を名乗るべき地位にあったのは将軍足利義晴であり、真正の日本国王使は将軍義晴を擁する細川方であった。朱縞が明朝当局に細川方の正当性を説明して上記の待遇を勝ち取った、との見方もある。

 いずれにしても、朱縞および細川方遣明使節一行は、大内方の恨みを買うこととなった。

寧波事件勃発

 五月一日、大内方遣明使節が蜂起した。彼らはまず官庫を襲い、預けてあった貢納品と武器を強奪すると、刀剣と甲冑で武装して東南の城門に立て籠った。「宋素卿伝」によると、大内方の軍勢は、五月三日の明け方、細川方の正使・鸞岡瑞佐を含む使節人員十数名を門外の河岸で斬首。死体を川に投げ込んだ後、朱縞を探して府城の北門に回り込むと、宿所の嘉賓堂および細川方の船を貢納品ごと焼き払った。

 朱縞ら細川方の70余名は寧波府および寧波衛のはからいで、既に紹興方面に逃亡していた。しかし大内方は寧波衛指揮の袁璡に道案内を迫り、その軍船を駆って朱縞らの行方を追跡。慈溪県近郊で逃げる細川方を襲撃して若干名を殺傷し、抵抗する住民をも殺戮しながら紹興府に押し寄せた。

 紹興府城は城門を閉じて防備を固めており、大内方からの朱縞引き渡しの要求も拒絶した。このため大内方は寧波に引き返し、袁璡を捕虜としたまま海上に逃亡した。『日本考略』によれば、五月六日には定海関の守備に当たっていた備倭総督・劉錦を、翌七日には衛百戸の劉恩を戦死させ、そのまま東方海上に去ったという。

kuregure.hatenablog.com

朱縞の処遇

 明朝では多くの犠牲者が出たにも関わらず、蜂起の主体である大内方の関係者を取り逃した。結局、朱縞と細川方の存命者のみを拘留して訊問を行うこととなった。

 明朝当局の訊問に対し、朱縞は大内側の一方的な非を訴えた。大内氏日本国王の臣下であって本来進貢を行う立場にないはずが、前回の朝貢船の帰国時に奪った正徳勘合を携えて入貢してきたもので、それを公言したところ逆恨みして襲ってきたのだと主張した。

 この時点では、現地諸官は朱縞の言い分を受け入れ、事件の被害者である細川方に同情的であったという。明朝の嘉靖帝も当初、朱縞については罪状なしと認めた上、大内方の罪も不問に付して本国に送還し、国王に厳重注意を促し、事件の背景事情を報告するよう申し渡すにとどめるつもりだったとされる(『殊域周咨録』巻2)。

 しかし監察系統の諸官からは、動乱の拡大を防げなかった関係諸官に対する処分と日本との断交を求める進言があり、また捕らえられた倭人たち、とりわけ朱縞を厳罰に処すべきとの主張がなされた。この為、朱縞は獄につながれ、2年後の1525年(大永五年)六月、朝鮮から送致されていた大内方の倭人2名とともに「謀叛」の罪で死刑判決を受けた(『明実録』嘉靖四年四月癸卯条)。

 ただし処刑自体はすぐには実行されなかったらしく、朱縞の没年ははっきりとしない。「宋素卿伝」では事件から20年以上たった1544年(天文十三年)に前述の倭人たちとともに処刑されたとする。

 一方、1547年(天文十六年)時点で明朝の朝廷も朱縞の結末を把握していなかった(『明実録』嘉靖二十六年十一月丁酉条)。この時、朝命を受けた浙江巡撫の朱紈が調査にあたり、最終的に朱縞は1547年十月二十九日に獄中で死亡したとの報告が上奏された(『甓餘雑集』巻2)。

 さらにこの10年後の1557年(弘治三年)、豊後大友氏の遣明使節として浙江沖の舟山島に滞在していた徳陽は、別の大友氏遣明使節が明軍に包囲された為、使者を明朝の参将・張四維に遣わして交渉を試みている。この時に使者となった通事・呉四郎は、宋素卿(朱縞)の流れをくむ人物であったとされている(『日本一鑑』)。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

  • 山崎岳 「各論9 宋素卿」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 山崎岳 「各論17 寧波の乱(寧波事件)」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 鹿毛敏夫 「日本「九州大邦主」大友氏と中国舟山島」(『アジアン戦国大名大友氏の研究』 吉川弘文館 2011)

実隆公記 卷三 明応七年九月十四日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:史料には「朱素卿」、「朱ニ官」などともみえる。

*2:朱縞とその使船に対する特別待遇と過去の罪科に対する寛大な処置は、宦官劉瑾への贈賄の見返りとささやかれたという。

*3:大内方はより新しい正徳勘合を持参していた。