芸予諸島の大島北側の港町。現在の愛媛県今治市宮窪町。戦国期、瀬戸内海屈指の海賊衆・能島村上氏の本拠地だった。
ルイス・フロイスの見た能島
天正十四年(1586)七月、播磨・室津から船で芸予諸島に至ったイエズス会宣教師・ルイス・フロイスは、能島に立ち寄っている。フロイスはこの島について「日本最大の海賊」(「能島殿」)が住み、大きな城を構え、多数の部下や地所、船舶を有していると記している(『フロイス日本史』)。
宮窪の遺構
能島村上氏の本城とされる能島城は小さな島であるが、対岸の宮窪には「コウガ屋敷」などのいくつかの城跡がある。これらが連関して同氏本拠を防衛する城塞網を構成していたと思われる。
コウガ屋敷は能島村上氏ゆかりの場所といわれ、遺構からは16世紀後半から17世紀前半のものとみられる瓦類や備前焼の擂鉢などが大量に出土している。寺院跡であった可能性も指摘されている。
また周辺には「カジヤダ」(鍛冶屋田)の地名が残っており、鍛治の存在がうかがえる。おなじく周辺の証明寺跡や海南寺には室町期の宝篋印塔が残されている。
能島村上氏の経済活動
能島村上氏の直接的な経済活動については、現在不明であるが、同氏は厳島や塩飽をはじめ航路の要所に拠点を設け、航行船舶から通行料を徴収していた。自らも多数の船舶と支配下の港を結んでの交易に関与した可能性は高い。能島周辺の海底からは中国の青磁・白磁も含む陶磁片や渡来銭が採取されており、能島村上氏の経済的繁栄がうかがえる。
見近島の役割
能島の北西、伯方島と大島の海峡部に浮かぶ見近島からは、15世紀中頃から16世紀中頃にかけての大量の陶磁器(国産の備前焼のほか、中国、朝鮮、ベトナム製の陶磁器)の他、中国青磁の香炉などの奢侈品が多く出土している。
見近島の役割については、同じ絵柄、文様の青白磁や未使用の製品、釉薬失敗の不良品などが出土していることから、いったん商品を集積し、仕分けしてから、各地に出荷する交易の中継基地だったとも推定されている。