深く広く湾入した志布志湾の奥に位置する港町。現在の鹿児島県志布志市。中世、物資の集散地や中国など海外との貿易で栄えた。
「志布志津」
鎌倉末期には既に「志布志津」と呼ばれていた。流通ルートと関係の深い、西国寺末寺の宝満寺も建立されていた。また同じく海運と深く関わる北条得宗家も志布志を含む島津御庄に進出しており、志布志の港としての発展がうかがえる。
「駄口米」の徴収
南北朝期、東福寺末寺の大慈寺が志布志に建立された。同寺は永和四年(1378)、九州探題・今川了俊から志布志の関所での「駄口米」(馬の荷にかける通行米)徴収を免許された。この権益は文明二年(1470)、島津氏によっても安堵されている。多くの荷を運ぶ人々が、志布志を行き交っていたことが想定される。
海外貿易の展開
また大慈寺は中国との交流も密接であった。文中三年(1374)に弟子を中国に派遣し、宋版の『大般若経』を入手している。このとき、中国へ船を派遣したのが島津奥州家の氏久とみられる。『明実録』によれば洪武七年(1374)、「志布志島津越後守臣氏久」が僧・道幸らを遣わしたとある。
当時、島津氏は志布志を拠点に、海外交易を展開したとみられる。応永四年(1397)四月、島津元久は京への贈り物に金、料足、唐物などを用意し、志布志の廻船衆に預けている物を鹿児島・福昌寺に寄進することを約束している。
応永十七年(1410)、元久が上洛のために用意した贈物のリストには虎皮、南蛮酒、麝香、茶碗、人参などがあった。志布志での貿易で入手したものとみられる。
参考文献
- 『宮崎県史通史編 中世』 1998