戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上関 かみのせき

 周囲を囲む長島と熊毛半島によって、波と風から守られた良港。周防灘、豊後水道および安芸灘の結節点という要衝にあった。平安期から室町中期にかけては、専ら「竃戸」あるいは「竃戸関」と呼ばれた。

平安期以来の港町

 竃戸の史料上の初見は、康保三年(966)。「清胤王書状」によれば、周辺の長島や小江(麻郷)などとともに御厨となっていた。平安後期には「かまどといふとまり」と呼ばれており、既に港湾としての機能を持っていたことが分かる(「散木奇歌集」)。

 平安末期の寿永三年(1184)には賀茂別雷神社(上賀茂社)の社領としてみえ、はじめて「竃戸関」と記されている。

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八幡宮の参道から眺めた上関の町。

瀬戸内海の海関

 「関」の名が示すとおり、竈戸関(上関)は沖を通行する船舶を監視する海関でもあった。宝治元年(1248)十二月、蔵人所牒をもって、左方灯炉御作手の供御人の通行に際し、竈戸、門司、赤間、島戸、三尾(美保関)などの関の新儀狼藉が停止されている。

 応長元年(1311)には竈戸関の地頭代に対し、筑前国粥田荘(高野山金剛三昧院領)の人や年貢などを載せた船を、煩いなく竈戸関を通過させるよう指示が出されている。

 また南北朝期の暦応四年(1341)、室町幕府紀伊熊野水軍である泰地・塩崎の一族に、 周防竈門関(竃戸関)から尼崎までの間の西国運送船・廻船の警固を命じた。見返りとして兵粮料の徴収を許した。ここでも竃戸関が、瀬戸内海海運の西の関門として認識されていたことが分かる。

上関の水運

 文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」に、「上関」という語が初めて見える。「兵庫北関入船納帳」によれば、この年、上関船は7艘が兵庫に入港した。東大寺への年貢米や商品と思われる周防塩やボラ、米などを畿内に運んでいる。

 これらの船は、全て兵衛太郎というものが所有していた。中でも東大寺への年貢船は一度に七百石を運んでおり、かなり大きな船であったことが分かる。

 この大型船は、宝徳二年(1450)を史料上の初見とする「竃戸関薬師丸」という船に該当する可能性も指摘されている。薬師丸は周防国富田の公用米を東大寺へ納入しているのをはじめ、頻繁に東大寺の年貢を輸送している。応仁二年(1468)の遣明船派遣に際しての船舶調査では、「五百斛(石)」積の船として書き上げられている(『戊子入明記』)。

 また「入明諸要例」によれば、上関の「夷丸」という船が遣明船候補に挙げられている。この夷丸も「周防国夷丸」として、東大寺に年貢を運送していることが確認される。

海賊たちの港

 朝鮮通信使・朴瑞生の永享元年(1429)の報告には、「四州以北竃戸社島等処、赤間関以東の賊なり」とある。竃戸関が、海賊の拠点の一つと認識されている(『李朝実録」)。「志賀・竃戸・社島等賊、大内殿主之」ともあり、通信使らは、これら海賊が大内氏支配下にあるとみていた。

 応仁年間、「周防州上関太守鎌苅源義就」、「周防州上関屋野藤原朝臣正吉」と名乗る者が朝鮮に遣使している(『海東諸国記』)。竃戸関(上関)が朝鮮でよく知られた港であったことがうかがえる。

能島村上氏の進出

 『中国九州御祓賦帳』の享禄五年(1532)の記録によれば、当時上関に「上関村上殿」および「同村上弥三殿」なるものがいた。能島村上氏系図によれば、村上氏の祖である義顕の子の村上義有が「防州上之関在城」とされている。また江戸期に能島村上氏の子孫が寄進した上関天満宮の常夜灯には村上吉敏、武満親子が上関城に在城していたと記されている。

 村上武満については、当時の史料でも存在が確認されている。天正二年(1574)十一月、赤間関の問丸の佐甲藤太郎に対して「当関役堪過」について承認する旨の書状を送っている。このことから、16世紀後半、村上武満が上関に居住し、船舶から「関役」の徴収を行っていたことが分かる。

毛利氏の経済封鎖作戦

 また毛利氏奉行人・国司元蔵、粟屋元勝が連署で出した年未詳の書状によると、毛利氏は武満に上関での「船留」を命じている。同様の指示は柳井大畠塩飽などの勢力にも出されている。織田氏部将・羽柴秀吉の侵攻が本格化する中で、瀬戸内海の経済封鎖を試みたともいわれる。

関連人物

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参考文献

  • 金谷匡人 『歴史文化ライブラリー56 海賊たちの中世』 吉川弘文館 1998
  • 山内譲 『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997

 

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八幡宮の参道から眺めた上関の町。

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上関の町屋建築のひとつ。中二階部が横格子の虫籠窓。あわせてひし形の縁取りがされており、装飾性が高くなっている。

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上関の町並み。伝統的な町屋が残されている。

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八幡宮の鳥居と社殿。

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明関寺跡にあった旧上関小学校跡。明関寺は江戸期、朝鮮通信使の責任者だった対馬藩主・宗氏の接待、宿泊所としても使用された。明治三年の廃仏毀釈令で廃寺となり、跡地は上関小学校の敷地として長い間使用された。

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復元された上関城の冠木門。

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城山(上関城)の頂上部の曲輪跡。周辺海域を見渡すことができる。

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熊毛南高校上関分校運動場の隅に安置された石塔群。中世の五輪塔や宝篋印塔の残欠が確認される。

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旧上関番所。港の警備、見張り、越荷会所であつかう積荷の検査や口銭の徴収を行っていた。寛永九年(1632)に建てられた。平成八年(1996)に現在の高台に移築された。

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上関御茶屋正門石垣(上関御茶屋の正門跡)。上関御茶屋は、江戸期に毛利藩主や参勤交代の九州諸大名、幕府の役人、朝鮮通信使などの接待、宿泊所だった。

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上関の渡船場前バス停。対岸に室津。奥に上関大橋。

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上関大橋から眺めた上関瀬戸。

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上関の対岸、室津に建つ四階楼。明治十二年(1879)に建築された擬洋風木造四階建の建物。四階四方の窓にはフランス製といわれるステンドグラスが短冊状や三角形状に入っている。国の重要文化財