戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

呉 くれ

 広島湾の東の関門である音戸瀬戸を扼す地点に位置する港町。中世、水軍・呉衆の拠点となった。

石清水八幡宮「呉別符」

  平安期、呉浦は皇室領安摩荘であったが、その一部を石清水八幡宮は「呉別符」として雑公事を取得していたといわれる。12世紀後半ごろ、八幡宮は攻勢を強めて呉全体を「呉保」として掌握するに至る。

 清水八幡宮は他に長門・埴生や備後・藁江、備前牛窓など瀬戸内沿岸の港湾荘園を保有して九州の宇佐八幡宮から京都の石清水八幡宮までの航路を確保していた。呉もまた、この航路の中継港に位置づけられていたと思われる。

「呉津 三百貫」

  大永三年(1523)八月十日の「安芸東西条所々知行注文」には「呉津 三百貫」とみえる。当時、呉が大内氏の東西条(西条盆地を中心とする大内氏の支配地域)代官の分国統治の対象であるとともに、ある程度発展した港町であったことが分かる。

水軍呉衆

 この呉を支配したのが、安芸国における大内氏直属水軍・三ヶ島衆の一角を構成する呉衆だった。呉衆および三ヶ島衆は、応仁・文明の乱では東上する大内軍の先鋒を務め、伊予や九州への出兵でも活躍するなど大内氏水軍の中核として活動している。

 上記の功績により呉衆の山本氏や警固屋氏らは大内氏から周防柳井豊前国に知行地を得ていた。山本氏などは、呉を拠点に柳井や九州を結ぶ水運に関わっていた可能性もある。

関連人物

参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)

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夕暮れの呉湾。呉湾に向かって建つ海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府)は明治期のレンガ石造建築。そこは中世は「塔ノ岡」と呼ばれ、墓碑群が並んでいた可能性があるという。そこから海に突き出す先端部は「洗足(千束)」と呼ばれ、千僧供養に由来する地名だという。

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昭和町アレイからすこじま前のの赤レンガ倉庫。呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代に建てられた。

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旧魚雷揚げ下しクレーン 。呉港が軍港だった時代、魚雷などの揚げ下ろしに活躍した経歴を持つクレーン。奇跡的に戦火をまぬがれ、戦後もしばらく稼働していたとのこと。

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旧呉海軍工廠。現在はIHIのドッグ。

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入船山記念館前の通り。「入舟」の名のとおり、中世の「呉津」は、この入舟山記念館のある尾根と呉地方総監部(旧鎮守府)のある「塔の岡」の尾根の間を天然の良港として形成されていた可能性も指摘されている。

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旧呉海軍工廠塔時計。大正十年(1921)、旧呉海軍工廠造機部屋上に設置された。電動親子式衝動時計としては、国産で最も古いもののひとつであるという。

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旧呉鎮守府司令長官官舎。明治38年(1905)の建築当時の資料をもとに復元したもの。国の重要文化財。木造平屋建で、東側の洋館部と西側の和館部からなる。洋館部は外観に英国風のハーフティンバー様式を取り入れている。

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旧呉鎮守府司令長官官舎の一部屋。壁や天井には、金唐(きんから)紙が張られている。

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入船山公園の宝篋印塔。音戸の瀬戸の「清盛塚」と同時期のものといわれる。

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旧海軍倉庫(現在の呉YWCA)の石垣と石畳の水路。戦前の呉の風景をとどめている。

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呉市郷町の道路脇に祀られている五輪塔群。中には宝篋印塔の部材も混じっている。

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呉市和庄の明法寺。この地にかつて山本氏の居城、杉迫城(堀城)があったといわれている。

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亀山神社の社殿。