戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

北庄 きたのしょう

 北国街道、足羽川、交差点に位置する市場町。越前北部地域(足羽、吉田、坂井の三郡)の実質的な中心地を担って栄えた。周囲の社庄(石場)、木田庄とともに三ヶ庄とも呼ばれた。

冷泉為広の見た北庄

 延徳三年(1491)の「冷泉為広卿越後下向記」には「北ノ庄 里」、「町屋 橋・里」と記されている。すでに北庄には、町場が形成されていた。また街道のランドマークである巨大な*1北庄橋が、足羽川に架かっていたことも分かる。

越前北部経済の中心

 明応二年(1493)、朝倉光玖が、「三ヶ庄十人衆商人中」に対し、浅水川から加賀国境までの範囲における軽物(絹織物)商売の独占を保障している。この頃には北庄を含む三ヶ庄が、越前北部の経済の中心となっていたことがうかがえる。

 朝倉氏が滅びた直後の天正元年(1573)八月、織田信長は北庄の有力商人・橘屋に対し、「北庄三ヶ村軽物座」を以前の通りに保障するとしている。北庄の地位が、戦国期を通じてのものであったことが分かる。

織田氏支配下での発展

 朝倉氏滅亡後は、乗谷から商人が北庄に移住して一乗町を形成した。また天正二年(1574)正月、織田信長は橘屋に宛てた定書で「唐人之座」と「軽物座」を、三ヶ庄と一乗、三国、端郷に認めている。

 天正三年、柴田勝家が越前を得て北庄に入ると、その治下では唐人座、軽物座を除く「諸商売楽座」も実施された。北庄は越前一国の中心を担う城下町として大きく繁栄し、その地位は近世の福井へと継承されていく。

関連人物

参考文献

  • 小泉義博 「第五章 中世後期の経済と都市 第一節 産業・交通の発展 二 交通路の発達と市・町の形成」( 『福井県史 通史編2』 1995)
  • 永原慶二 「第Ⅱ部 第四 戦国織豊期日本海海運の構造」 ( 『戦国期の政治経済構造』) 岩波書店 1997

*1:このときは百八間と記されている