戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ケープタウン Cape Town

 アフリカ大陸南西部の先端にあるケープ半島の北の端に位置する港町。北にテーブル湾、南をテーブルマウンテンなどの山々に囲まれる地形となっている。日本での勤務経験もあるヤン・ファン・リーベックが責任者となり、1652年(承応元年)から基地建設が進められた。

中継基地の建設計画

 1649年(慶安二年)7月、レーンデルト・ヤンツとプルートが、ケープでの基地建設をオランダ東インド会社に提案した。新鮮な水が得られ、野菜の栽培も可能で基地建設に相応しいとの理由だった。両名はケープ半島北側のテーブル湾で座礁したハーレム号の乗員であり、1647年(正保四年)3月から1648年(慶安元年)4月まで現地に滞在した経験があった。

 1651年(慶安四年)3月、中継基地と要塞の建設が決定された。責任者には東インド会社の元職員であるヤン・ファン・リーベックが選ばれた。

 リーベックはバタヴィアや日本の長崎出島、ベトナムのトンキンで勤務経験があり、トンキンでは次席商館員に任じられていた。オランダ本国に帰国する途中にテーブル湾に寄港して、ハーレム号等の修繕と積み荷の引き上げを手伝って数週間を過ごした実績もあった。

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ケープ植民地の始まり

 1652年(承応元年)4月6日、リーベックの艦隊はケープに到着。翌日、テーブル湾の西の端に上陸し、公式に占有を宣言した。

 8日から乗組員が上陸して、基地の建設が開始された。15日には、バタヴィアを1月25日に出航したサラマンダー号が寄港している。

 その後、リーベックの艦隊の一部は、当初の予定通りにジャワに向けて出航。ケープ植民地に残留したのは126人であった。しかも30人は病気に罹っていた。6月初めには、実働部隊は60人に減ってしまった。

ケープ植民地の発展

 困難はありながらも、ケープ植民地は中継基地として機能し始める。1653年(承応二年)1月、オランダからブラック・フォックス号が到着。3月にはバタヴィアからゼーラント号など帰航船団が寄港している。

 1656年(明暦二年)のテーブル・ベイ居留地の地図によれば、フレッシュ・リヴァーの東に要塞が築かれ、西には、山麓から流れる水路を引き込んで整然と区画された菜園が設けられている。また自由市民には、ケープタウン周辺に農場が与えられた。

 リーベックは、港湾整備を進め、果樹や野菜を栽培し、現地のコイコイ人から家畜を入手した。彼が持ち込んだ果樹には、ブドウも含まれていた。温暖で降水量が少ない気候はブドウ栽培に適し、ワイン造りは南アフリカの重要な産業に発展していく。

 1662年(寛文二年)4月、リーベックの後任*1がケープ植民地に到着。リーベックは家族とともに5月7日にケープ植民地を出航し、次の任地であるバタヴィアに向かった。

参考文献

  • 布野修司 『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成―コスモスとしてのカンポン』 2021

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ケープタウンの港のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20161204343post-9779.html

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テーブルマウンテン頂上から眼下に望むケープタウンの大パノラマ(南アフリカ)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20181213346post-19011.html

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喜望峰からの眺めのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20161200343post-9777.html

ヤン・ファン・リーベックの肖像 1660年頃
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

*1:リーベックは、本社に度々離任を申し入れていた。1660年(万治三年)には、叔父のヘリット・ファン・ハーンが後任に指名されるが、彼は着任のための航海中に死去していた。