戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

オーブダ Óbuda

 ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。ローマ帝国時代、この都市は「ブダ」と呼ばれ、下パンノニアの中心地として栄えた。中世、ハンガリー王国の中心の一つとなったが、13世紀にモンゴル軍に破壊された。その後、国王ベーラ4世によって「ブダ」南方の城丘に新都市が建設されると、この都市が「ブダ」と呼ばれるようになり、元の「ブダ」は「オーブダ(古いブダ)」と呼ばれるようになった。

ローマ帝国の駐屯地

 ローマ帝国ドナウ川を国境とし、川の西岸に国境防衛のための兵士駐屯所、監視塔などを作り、川の対岸にも見張り櫓を作った。紀元106年、下パンノニア*1の中心として、軍団のための駐屯地を建設し、これを「アクインクム Acuincum」と名付けた。このアクインクムを中心とする地域が、ある時期から「ブダ Buda」と呼ばれた。

 そばには「基地の町」も作られ、下パンノニア州の総督や役人、兵士の家族、手工業者、軍隊のサービス要員などが住んだ。「基地の町」には1万から1万2000人が住んでいたと言われる。

 この駐屯地と「基地の町」の北に「市民の町」が作られた。これは124年に「自由市」の地位を獲得、194年には「植民市」となった。町は壁で囲まれ、中心にフォールム(公共広場)があり、公共浴場、教会、市場、水の設備もできていた。今もなお、フォールムや浴場が残っている。

 しかし住民の移動により、5世紀にはアクインクムは消滅。都市はフン人の支配下に入った。その後もアヴァール人やスラヴ諸部族がやってきて、ローマ時代の遺産は破壊されていった。

マジャル人の定住

 5〜6世紀、ロシアのウラル山脈南部の平原にいたマジャル人が、黒海の北の平原に移動。さらに9世紀末までには旧ローマ帝国パンノニア州を支配したとみられている。マジャル人のうち、有力な部族長にクルサーンとアールパードがおり、前者はオーブダに定着し、後者はドナウ川のやや下流にある中の島であるチェペル島に住んだ。

 当時のオーブダは、ドナウ川の東と西を結ぶ拠点であり、ドナウ川を渡る「渡し(レーフ)」も作られていて、交易、交通上で重要なところであったという。904年(延喜四年)、クルサーンが暗殺されると、アールパードが大首長となり、クルサーンの権力と財産を継承。拠点もオーブダに移した。アールパードは907年(延喜七年)に死去し、遺骸はオーブダ周辺に埋められたと言われる。

 アールパードの死後、その子孫がマジャル人の大首長を務め、ここにアールパード朝が始まった。

イシュトヴァーンの都市建設

 1000年(長保二年)の大晦日、大首長イシュトヴァーンがローマ教皇から王冠を戴き、ハンガリー王国を創始される。王の居城は戴冠の地でもあるドナウ川上流のエステルゴム、およびオーブダから南西60キロメートルのセーケシュフェヘールヴァール*2にあったが、一方でオーブダの発展も図られた。

 イシュトヴァーンはオーブダにあった「クルサーン城」の北方に城を作り、その北に聖ペテロのための教会*3を建てさせた。イシュトヴァーンの城は、ローマ時代後期の基地の壁の中にあったとみられ、その後13世紀に新たな城壁で囲まれた王城が作られた。

 王城の下には都市が形成され、ドナウ川に沿って町は細長く伸びて、商人、手工業者などを住まわせ、繁栄したという。そこには聖堂参事会も作られ、市も開設された。ドナウ川の漁業権や、ドナウの渡し税などで潤ったともされる。

 13世紀初めまでには、エステルゴム、セーケシュフェヘールヴァールおよびオーブダを結ぶ三角地帯が「国の中心」と考えられるようになっていた。オーブダでは、13世紀前半のアンドラーシュ2世の時から、ハンガリー王はオーブダで春の立法、司法会議を開いていたとも言われている。

モンゴルの侵攻

 1241年(仁治二年)春、バトゥ率いるモンゴル軍がカルパチア山脈を越えてハンガリーに侵入し、4月にはベーラ4世率いるハンガリー王国軍がモヒの戦いで壊滅した。モンゴル軍はハンガリー各地の都市を破壊しながら進軍。1242年(仁治三年)1月にはオーブダも攻撃を受けて完全に焼き落とされた。

 1242年のうちにモンゴル軍が撤退すると、ハンガリーではベーラ4世のもとで復興が図られた。1247年(宝治元年)、ベーラ4世はドナウ川東岸の都市ペシュトの対岸(西岸)にあった「城丘」に、石の城壁に囲まれた都市と王城の建設を開始。ペシュトやオーブダの住民にも「城丘」への移住と築城への協力が求められた。

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 「城丘」は、正式にはラテン語で「新しい丘のペシュト町」と呼ばれたが、やがて1260年代から「ペシュト新丘」「ブダ丘」と呼ばれるようになった。そして、しだいに「ブダ」という呼称が定着するようになり、その為、元の「ブダ」は「オーブダ(古いブダ)」と呼ばれるようになった*4

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14世紀のオーブダ

 モンゴル撤退後の1335年(建武二年)、オーブダは「王国自由都市」となり、封建的負担を免れることになった。しかし、1343年(康永二年)にラヨシュ1世がオーブダの城を王の母に与え、それ以後ここは「王国自由都市」ではなくなり、王妃の都市となった。さらに1355年(文和四年)、オーブダの北部は聖堂参事会に属し、南部は王妃に所有されることになった。

 このためオーブダの力は半減し、「市民」は成長せず、オーブダの社会は主として葡萄を栽培する農業都市という性格を帯びることになったという。都市は壁で囲まれることもなかった。

参考文献

  • 南塚信吾 『ブダペシュト史―都市の夢』 現代思潮新社 2007

ゲッレールト山から見たオーブダ地区とマルギット島 CharlesによるPixabayからの画像

*1:パンノニアは、カルパチア山脈アルプス山脈、ディナル・アルプス山脈の尾根に囲まれた地域を指す。パンノニア平原、カルパチア盆地とも呼ばれる。ドナウ川中流域のほとんどを含んでおり、現在のハンガリーとスロヴァキアの全領域とオーストリアボスニア・ヘルツェゴビナチェコ、クリアチア、ルーマニアセルビアスロヴェニアウクライナの一部を含む。

*2:当時の呼称はアルバ・レギあないしフェイェールヴァールであったという。

*3:この教会は後のラースロー王の時にようやく完成した。

*4:1261年までには、これまでのブダはオーブダと呼ばれるようになっていたという。