戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

シャイガ Shaiginskoe

 ロシアのナホトカ市の北方、スウチャン川左岸の丘陵に位置した城郭都市。12〜13世紀に女真族が建国した金および東夏において、地域の行政・経済の中心であったと考えられている。当時の名称は不明。この城址からの発見物が、鎌倉期日本の謎の解明につながった。

城址の規模と城壁

 シャイガ城址は、谷を囲む丘陵全体を城址としており、城址内には長軸方向に谷が入り込み、谷を取り囲む丘の稜線が城址の境界となる。周長は約3600メートル。土塁の高さは0.5〜4メートルと計測されている。

 城壁には馬面*1が付されて防御力が高められていたり、舌状に突出させて横矢を掛けられるようになっている箇所もある。

 門は4ヶ所が確認されている。北門は甕城*2の形式を取っている。谷の入り口には両側斜面から土塁が迫り、そこに門を築いていた。城門の上屋は瓦葺であったと考えられている*3

城内の施設

 城址内では谷筋の両側斜面に、幅の狭い平坦面を多数削り出して階段状に並べている。それぞれの面に住居趾が立ち並ぶ。

 城郭の南側には、東西に隣接する2ヶ所の内郭と、小型方形区画が存在する。この内郭には、武器庫や統治機関の構成員の居住区があったと考えられている。また方形区画の周辺からは紀年銘のある銅製分銅や銅印が出土している。このため、この区画には政務空間のような公的な施設が存在したと推定されている。

 谷筋に面した低位の平坦面には製鉄工房趾があった。ここでは製鉄炉が検出され、鉄滓(てつさい)、鉄鉗(かなばし)、鉄鑪(てつろ)、鑿(のみ)、鉄槌等の鍛治具が出土し、製鉄から精錬・製品加工が行われていたことが分かる。

住民とその生活

 一般的な住居は、谷の小河川の両側の斜面に立ち並んでいた。住居の形は方形で、53%が40〜50平方メートル、22%が30〜40平方メートルという広さを持ち、おおむね一様な面積を持つ。また多くの住居に、総柱の小型倉庫が付設されていた。公団住宅の様に形態や面積が規格化された住居群である。

 住居趾の総数は400基を超え、シャイガ城址は数千人の居住が可能な城郭であったと推定されている。

 住居群内部には小規模なガラスや銅製品の鋳造工房も存在し、職人も居住していたらしい。城内からは農具、雑穀、漁具、家畜の骨などが出土し、住民たちが様々な生業に従事していたことが分かる。また、牛や馬などの家畜の飼養場所や畑地が、城郭に近接して存在し*4、市も近隣にあったと考えられている*5

地域支配の中心地

 以上の様なシャイガ城址の規模から、この城郭が金・東夏の時代において、地域の行政・経済の中心地であったと推測されている。

 裏付けとなる遺物も出土している。その一つが銀牌である。銀牌は駅伝利用、地方統治のための身分証の役割を持っていた。『金史』巻58百官志の符制の条には、「銀牌は猛安に授く」とあり、シャイガ城址が猛安クラス*6の治所であったことが分かる。

 さらに内郭内の住居趾からは、「治中之印」と記された銅印が出土した。治中とは、金の末期において府の副長官を指しており、その官職を持つ人物が城内に居住していたものと思われる。

越後国寺泊の漂着船

 日本の鎌倉幕府が編纂した『吾妻鑑』には、貞応二年(1223)から同三年(1224)の冬に、高麗人の船が越後国の寺泊に漂着したという記事がある。

 この船の船員は見つからず、遺留品が鎌倉に届けられた。その中に、細ひもで組んだ帯があり、その帯の中央に銀の札が付けられていた。札には4つの文字が刻まれていたが、誰も読むことが出来なかったとして、刻まれた書体が写されている。

 この文字は長らく謎であった。ところが1976年にシャイガ城址で上記の銀牌が発見されたことにより、解読が一気に進んだ。一文字目は花押、二文字目以下は女真文字で"qürün-ni qadaγun"と読むことができるという。これは「国の誠」という意味となる。

 これによって『吾妻鑑』に記録された銀札は、女真の武官が携行した牌子(パイザ)という通行手形であることが分かった。漂着船は高麗のものではなく、女真(年代から考えて東夏)のものと考えられる。

東夏の海上交通

 寺泊の漂着船で発見された銀の牌子からは、東夏が外洋船を用いた海上交通を行なっていたことが分かる。

 シャイガ城址は、河川水運*7により海上航路と繋がっていた可能性がある。実際に城址からは、外洋船と思われる船の線刻がある土器が出土している。

 同じく多数発見されている中国陶磁器などは、海を介してもたらされたのかもしれない。

関連事項

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参考文献

*1:城壁に作られた突出部。この部分から横矢を掛ける。

*2:門の外側に、鍵手状の城壁を付属させて小区画を作り、さらにそこに門を設置したもの。日本の城郭の外枡形に近い。

*3:この周辺の発掘調査の結果、瓦の集積が検出されたため。

*4:農具や車軸金具が出土している。

*5:貨幣や磁器などの搬入品の出土から推定されている。

*6:猛安・謀克制は、兵士となることができる成年男子300人を含む300戸を1謀克とし、10謀克を1猛安として、女真族を編成する社会組織・軍事組織を指す。猛安は女真語で「千」を意味するming-kan、謀克は「族長」を意味するmukeの音訳とされている。

*7:シャイガ城址が接するスウチャン川の上流からは金・東夏期の瓦窯が発見されており、ここの瓦がシャイガ城址に運ばれていた。運搬には河川水運が利用されたとみられる。