戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

楊兀魯帯 ようろたい

 元朝(大元ウルス)の将軍。1285年(弘安八年)とその翌年、骨嵬(クイ)を討つ為、大軍を率いてサハリンに侵攻した。動員された兵数は1万人で、これとは別に、兵糧確保のため旧南宋軍による屯田も行われた。

元朝と骨嵬の接触

 1263年(弘長三年)頃、チンギス=カンに仕えた功臣ムカリの子孫である碩徳(シデ)に率いられた元軍が、遼東の斡拙(ウジェ)*1と吉烈滅(ギレミ)*2を攻め、両者を服属させた(『元史』巻119)。

 元朝は服属したギレミから、東にいる「骨嵬」(クイ)*3と「亦里于」(イリウ)によって、毎年侵攻されていることを訴えられた。このため1264年(文永元年)十一月、元朝は骨嵬の地に軍を進めて征討した(『元史』巻5)。これが骨嵬と元朝の戦いの発端となった。

賽哥小海を望む

 1272年(文永九年)、元朝の征東招討司・塔匣剌(タヒラ)が軍を率いて弩児哥(ヌルガン)*4の地に至る。ここで情報収集した際、厭薛(イムシェ)という人物から、「骨嵬を討とうとするなら、冬の賽哥小海の渡し口が結氷するまで待つべきだ。」という助言を得ている(『元文類』巻41)。賽哥小海とは、現在の間宮海峡を指すとみられる。骨嵬の討伐とは、間宮海峡を渡ってサハリンに侵攻することを意味したことが分かる。

 この翌年の1273年(文永十年)九月、塔匣剌は骨嵬部の討伐を申請したが、許可されなかった(『元史』巻8)。『元文類』巻41には、塔匣剌から「海が風と波で荒れた為に渡り難く、タイイン、吉烈迷、骨嵬等の地を征伐するには至らなかった」とする報告があったことが記されている。

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元軍のサハリン侵攻

 1284年(弘安七年)に至り、元朝の骨嵬討伐が本格化する。この年の八月、征東招討司・聶古帯(ニクタイ)に、クビライ=カアンより骨嵬討伐の詔が下る。この時は、船に兵糧と武器を載せて侵攻することが計画されていた。十月、征東招討司率いる元軍が骨嵬を討った(『元史』巻13)。

 元朝はさらに骨嵬への攻勢を強める。1285年(弘安八年)、征東招討司の塔塔児帯(タタルタイ)と楊兀魯帯(ヨウロタイ)が、1万人の元軍を率いて骨嵬を攻めた。このため、楊兀魯帯は三珠の虎符が授けられ、征東宣慰使都元帥に任命された(『元史』巻13)。

 1286年(弘安九年)十月にも、塔塔児帯と楊兀魯帯が派遣された。両名は、1万人の兵と船千艘の大軍を率いて骨嵬を攻撃した(『元史』巻14)。楊兀魯帯ら率いる元軍は、1艘に10人ほどが乗り込む小型の船で、サハリン島に侵攻したものと思われる。

 ただ楊兀魯帯らの骨嵬攻撃の結果は、不明である。骨嵬は一時サハリンから追い出されたのではないか、とする見解もある。

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元朝屯田経営

 大軍で骨嵬を攻撃した元朝は、兵糧確保の為か、アムール川下流域に屯田を設置している。1286年(弘安九年)三月、張成という将軍が、妻子を伴い「黒龍江の東北の極辺」に着任し、屯田を開始した(「敦武校尉管軍上百戸張成墓碑」)。張成は旧南宋の軍人で、1281年(弘安四年)の日本侵攻(弘安の役)に参加して生還した人物だった。

骨嵬による渡海侵攻

 楊兀魯帯らの攻撃から約10年後の1297年(永仁五年)五月、骨嵬の瓦英が吉烈迷の協力を得て、海を渡って乱を成すという事件が起こる(『元文類』巻41)。「ナヤンの乱」により、アムール川下流域における元朝の支配体制が揺らいだことが背景にある、とする考えもある。

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参考文献

  • 中村和之 「「北からの蒙古襲来」をめぐる諸問題」(菊池俊彦 編『北東アジアの歴史と文化』) 北海道大学出版会 2010

元史 巻13 (国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ツングース系の集団。名称的には現在のアムール川下流域に居住する先住民族のウデヘにつながる。

*2:ニブフを指すとみられる。ニブフはサハリン(樺太)やアムール川下流域の部族。中国の史料には「吉烈迷」「吉列滅」「吉列迷」などと表記される。

*3:「骨嵬」はアイヌを指す。「骨嵬」の表記は、ニブフがアイヌを指して呼ぶ"kuyi"や"kui"の音写とみられる。

*4:奴児干とも。アムール川河口部近くのティルに比定される。元朝はこの地に東征元帥府を設置した。