戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

シラヌシ(白主土城) しらぬし

 サハリン最南部のシラヌシの地に築かれた城郭。白主土城と呼ばれる。サハリン最南端のクリリオン岬近く、北海道島とサハリン島を結ぶ海上交通の要衝に立地している。その構築は、大陸の勢力によって行われたと推測されている。

間宮林蔵の見た旧址

 江戸期の文化五年(1808)、幕府の命令で樺太(サハリン)を探索した間宮林蔵は、シラヌシから凡そ1里ばかり東の海岸にある「コゞハウ」という地で、現地の人々が「チャシ」と呼ぶ砦の旧址を見た。

 三面に堤(土塁)があり、長さは凡そ24~25間で、三方とも堭(堀)が穿たれていた。いつの時代に、誰が造ったものかは不明としながら、サハリンのアイヌが造ったものではないように思えたと述べている(「北夷分界余話」)。

白主土城の構造

 林蔵が見た砦址は、現在は白主土城と呼ばれている。白主土城は、サハリン最南端のクリリオン岬の北西約2キロメートル、間近に日本海を臨む標高20~25mの低位海岸段丘上に立地する。北海道の宗谷岬からは約45キロメートルの地点にある。

 土城の平面形は、やや歪んだ台形を呈する。土城の南西にあたる海岸段丘の崖面を正面としており、設計には海岸に面することを重視した意図が看て取れるという。

 林蔵が見た三辺の土塁のうち、残存する北西と南東の土塁には、幅4メートルほどの門を有する。

 辺の長さは、南東土塁が104メートル、北西土塁が115メートル。南西(土塁が無い辺)は98メートル、土塁が消失している北東側は115メートルを計測している。

 土塁の幅は、地点により一定ではないが、下端が約6メートル、上端が約2.5メートルであった。堀は、土塁の外側を廻る空堀。堀の底と土塁頂上の比高差は3メートルを超える。

白主土城の年代

 土城の遺構からは、大陸産のパクロフカ陶器が出土している。パクロフカ文化の年代観は、おおよそ9~13世紀に位置付けられる。

 またパクロフカ陶器の廃棄年代と、土塁の構築に大きな時間差は無いとされる。その土塁の構築には、版築技術*1が用いられていた。白主土城の土塁のそれは、約20cm単位の土留めを用いたと推測される精緻な版築技術であり、サハリンの在地勢力にはみられない技術だという。金朝や元朝の技術の影響が窺えるとする指摘もある。

 以上のことから、白主土城の築造には、大陸の勢力・文化からの影響が強く働いていたといえる。構築の年代は、金朝または元朝の時代と推定されている。

元朝のサハリン進出

 元朝時代の地誌『遼東志略』には、奴児干(ヌルガン)*2から海を渡ると吉列迷(ギレミ)*3などの諸々の夷の地があり、全て支配下に属している、と記されている。元朝の勢力が、サハリンに及ぶと認識されていたことが分かる。

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  元朝は1264年(文永元年)の接触以来、14世紀初頭頃までサハリンの「骨嵬」(クイ)*4と戦っていた。

 1284年(弘安七年)から1286年(弘安九年)にかけては、征東招討司の楊兀魯帯(ヨウロタイ)らに率いられた元朝の大軍が海を越えて、連年サハリンの骨嵬を攻撃している(『元史』巻13、14)。

 これら元朝によるサハリン侵攻の過程で、元軍の前進基地*5として白主土城は造られたと考えられている。一方でその立地から、アイヌ、ギレミ(ニブフ)ら現地人と元朝との交易拠点であった可能性も指摘されている。

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参考文献

  • 山口欧志・井出靖夫「サハリン白主土城-白主土城とサハリンの土城ー」(菊池俊彦・中村和之 編 『中世の北東アジアとアイヌ―奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界―』 高志書院 2008)

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宗谷岬 from写真AC

*1:土を建材に用い強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法を指す。

*2:アムール川河口部近くのティル村。

*3:ニブフを指すとみられる。ニブフはサハリン(樺太)やアムール川下流域の部族。中国の史料には「吉烈迷」「吉列滅」「吉列迷」などと表記される。

*4:「骨嵬」はアイヌを指す。「骨嵬」の表記は、ニブフがアイヌを指して呼ぶ"kuyi"や"kui"の音写とみられる。

*5:『元文類』には、1297年(永仁五年)に骨嵬の賊らが「果夥」(クオフォ)という場所を通過して、大陸に侵入した(しようとした)記事がみえる。白主土城は、この「果夥」であったとする見解もある。