戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ヌルガン Nuergan

 中世のアムール川下流域にあった地名。現在のロシア連邦ハバロフスク地方のティル村。金、元、明の3つの王朝は、ヌルガンの地に地域支配の拠点を設置した。史料には「奴児干」「弩児哥」などと表記されている。ヌルガンに持ち込まれた絹織物などの中国製品の中には、サハリン経由で日本にまで運ばれたものもあったとみられる。

金朝の奴児干城

 金朝の時代、13世紀にはヌルガンの地に「奴児干城」と呼ばれた拠点が築かれていた。元朝時代の地誌には、「(上京の)東北は哈州と曰い、奴児干城と曰う。皆渤海、遼、金の建てた所のものであり、元は全て廃したが、城の址は猶残っている。」との記述がある(『元一統志』巻2)。

 また『金史』巻24には、金の領域は、東は「吉里迷」(ギレミ)*1や「兀的改」(ウデカイ)*2などの居住地に及ぶとされている。

 規模や機能は不明ながら、金朝は奴児干城を拠点に、ギレミやウデカイの居住するアムール川下流域に影響力を浸透させていたものと考えられる*3

東征元帥府

 女真人の王朝である金朝と東夏は、モンゴル帝国によって滅ぼされた。アムール川下流域には、女真人国家に代わって、モンゴル帝国および元朝の勢力が及ぶようになる。時期は不明だが、元朝はこの地に「東征元帥府」を設置した。金朝時代の奴児干城の機能を、引き継ぐものであったと考えられている。

 東征元帥府への経路は、道路は険しく、崖石(岩山)は切り立っていた。盛夏は水が流れるので船で進むことが出来るが、冬は犬ぞりを用いて氷上を進むとされる。また穀物は育たず、食料は魚であったと史料に記されている(『金華黄先生文集』巻25)。

 1272年(文永九年)、元朝の征東招討司・塔匣剌(タヒラ)が、軍を率いて弩児哥(ヌルガン)に至った。塔匣剌はこの地で、「骨嵬」(クイ)*4を討つ為の情報収集を行い、兀的哥(ウデカイ)人の厭薛(イムシェ)から、賽哥小海(間宮海峡)の渡海方法等を聞いている。

極寒の流刑地

  元朝は東征元帥府を恒常的な機関とした。その機能の一つが罪人の流刑地だった。元末の学者・陶宗儀は、流刑先の奴児干(ヌルガン)について「其の地は極めて寒く、海も亦氷る」*5と記している。ヌルガンには、毎年役人が派遣され、囚人に食糧を支給していた。食料は全て、4匹の犬が引く犬ぞりで運搬されたという(『南村輟耕録』巻八)。

 元朝の元統年間、1333年(元弘三年)頃、孫子耕という杭州の人が、奴児干(ヌルガン)に流刑となった友を見送るために、肇州(ヌルガン南方の州)まで行って帰って来た、という話が『山居新話』にみえる。少なくとも、この時期まではヌルガンへの流刑が行われていた。

元朝屯田経営

 1286年(弘安九年)三月、張成という将軍が、所管の部隊を率い、妻子を伴って「黒龍江の東北の極辺」に着任し、屯田を開始した(「敦武校尉管軍上百戸張成墓碑」)。当時は元軍1万が、骨嵬を討つ為にサハリンに侵攻しており、その兵糧確保が目的であったともいわれる。

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 なお、張成は旧南宋の軍人で、1281年(弘安四年)の日本侵攻(弘安の役)に参加して生還した人物だった。旧南宋軍が、辺境であるヌルガンに追いやられていたのかもしれない*6

 1319年(元応元年)七月、ヌルガンの囚人で罪の軽い者を、南の肇州で屯田に従事させることとなった(『元史』巻26)。少なくとも、この時点までは元朝アムール川下流域で、屯田の経営を行っていたことが分かる。

明朝の奴児干都司設置

 14世紀後半から15世紀初頭、中国では元朝が衰退してモンゴルに撤退し、代わって明朝が興る。この間のヌルガンおよびアムール川下流域の状況は、よく分かっていない。

 明朝の永楽帝の時代、1409年(応永十六年)初夏、ヌルガン地方の首長の忽剌冬奴(フルドンヌ)らが入京し、ヌルガンは要衝なので元帥府を設置すべきと奏請した。これを受けて「奴児干都指揮使司」の設立が決定した(『明実録』)。

 1411年(応永十八年)、宦官の亦失哈(イシハ)は、明軍1千人と巨船25艘を率いてヌルガンに至り、奴児干都司を開設(「勅修奴児干永寧寺記」)。地域の酋豪の康旺、佟答剌哈(トウダルガン)、王肇舟、鎖勝哥(ソシェンゲ)の4名が衆を率いて参集し、官職と下賜品が与えられた(『潜確類書』)。

 亦失哈は翌年に帰還したが、その年の冬、永楽帝から再遠征の命を受ける。1413年(応永二十年)にヌルガンに至り、この時は海の外(サハリン)の「苦夷」(骨嵬=アイヌ)の諸民に及ぶまで、衣服や道具、米穀を与え、酒肴でもてなしたので、皆躍り上がって喜んだという(「勅修奴児干永寧寺記」)。後に日本で「蝦夷錦」と呼ばれた絹織物の中には、この時の下賜品が含まれていた可能性がある。

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 ヌルガンの西の丘には、既に観音堂が建っていた。この年の秋、亦失哈はここに永寧寺を建立し、後に「勅修奴児干永寧寺記」とよばれる石碑*7を、併せて設置した。亦失哈は遅くても翌年には帰還したと推定される。元朝時代と違い、明朝はヌルガンに恒常的な機関を設置したわけではなかった。

奴児干都司の終焉

 1432年(永享四年)、亦失哈は都指揮の康政とともに、ヌルガンに派遣された。使節の規模は、明軍2千人と巨船50艘。亦失哈のヌルガン出張は、既に7回目となっていた。

 そこで亦失哈は、破壊され、基礎だけが残っていた永寧寺の惨状を目の当たりにする。調べた結果、吉列迷(ギレミ)人らによるものと分かった。亦失哈は犯人を罰せず、逆に酒でもてなし、布物を与えたという。また永寧寺は再建され、改めて「重建永寧寺記」という石碑が設置された。

 しかし明朝では、7回目の派遣以前から、ヌルガンへの使節派遣コストが問題となっていた。特に松花江での造船は負担が重く、兵士の大規模逃亡を引き起こしていた。

 1433年(永享五年)に亦失哈は帰還するが、以後ヌルガンに使節が派遣されることは無かった。さらに1449年(宝徳元年)の「土木の変」で明朝が弱体化すると、アムール川中流域ですら、明朝が支配力は形骸化し始めた。

朝貢交易と交通路

 明朝使節はヌルガンへの遠征にともない、多くの絹織物をアムール川下流域に持ち込んだ。1428年(正長元年)、亦失哈の遠征が計画された際、「文綺表裏」(美しい絹の布)や「段匹」(反物)が準備された(『明実録』)。結局、この時の遠征は中止となったが、実施された場合は、これらの絹織物が遠征先の諸部族への下賜品となったと考えられる。

 ヌルガンへは2つの経路があった。『遼東志』には、「国朝(明朝)が奴児干に行く際に、此(現在の吉林市郊外)で船を造り、流に乗って海西に至り、贈り物を装載し、江に浮んで下り、直ちに其の地(奴児干)に至った」と記されている。

 陸路では、1412年(応永十九年)に、現在の黒竜江省双城県西花園屯の大半拉子古城を起点とし、奴児干都司付近の満涇站に直通するルートに、站赤(ジャムチ=駅伝制度)が整備された(『明実録』)。

 交通路の整備は、各部族の朝貢を促したと考えられる。上記の明朝による下賜は、一方的に与えるだけではなく、各地の産物を朝貢させるためのものでもあった。「重建永寧寺記」にも、彼らが海青(鷹の一種)や方物(物産)*8を捕らえ、朝貢したとある。

参考文献

  • 楊暘「永寧寺碑と北東アジア」(菊池俊彦・中村和之 編 『中世の北東アジアとアイヌ―奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界―』 高志書院 2008)
  • 中村和之「モンゴル時代の東征元帥府と明代の奴児干都司」(菊池俊彦・中村和之 編 『中世の北東アジアとアイヌ―奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界―』 高志書院 2008)
  • 中村和之・小田寛貴「ヌルガン郡司の設置と先住民との交易ー銅雀台瓦硯と蝦夷錦をめぐってー」(天野哲也・池田榮史・臼杵勲 編『中世東アジアの周縁世界』 同成社 2009)

元文類 巻41 招捕(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ニブフを指すとみられる。ニブフはサハリン(樺太)やアムール川下流域の部族。中国の史料には「吉烈迷」「吉列滅」「吉列迷」などと表記される。

*2:ツングース系の集団。斡拙(ウジェ)とも呼ばれる。名称的には現在のアムール川下流域に居住する先住民族のウデヘにつながる。

*3:金朝は女真人の建てた王朝であり、中国王朝の影響力拡大とみるよりも、女真人の勢力がアムール川下流域にまで及んだ結果と考えられている。

*4:「骨嵬」はアイヌを指す。「骨嵬」の表記は、ニブフがアイヌを指して呼ぶ"kuyi"や"kui"の音写とみられる。

*5:あわせて、八月になるとたちまち結氷し、明年の四、五月になって融けるとも記している。

*6:1287年(弘安十年)、「東真の骨嵬国」の万戸の帖木児(テムル)が、蛮(南宋)の軍1千人を率いて本国に引き上げている(『高麗史』巻30)。「東真」は東夏の別称であり、「東真の骨嵬国」は、骨嵬が東夏に従っていた為の表現と考えられる。1287年当時、骨嵬の勢力圏に旧南宋軍が追いやられていた、もとい派遣されていたのだろう。本国への帰還は、同年の「ナヤンの乱」が原因と推定されている。

*7:漢字、モンゴル文字女真文字チベット文字によって刻まれている。後の「重建永寧寺記」も同じ。

*8:『明一統志』等によると、これらの物産には大鷹、黒狐、貂鼠、海豹の皮、海螺の皮、殳角(セイウチの牙)、好刺(様々な種類の鹿)、鯨須(鯨のひげ)等がある。