戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上ノ国 かみのくに

 天の川河口部左岸の港町。現在の北海道桧山郡上ノ国町。蠣崎氏の本拠地。夷王山の麓に構築された城塞・勝山館の内部には、職人やアイヌの居住空間もあったとみられる。

上ノ国花沢館

 享徳三年(1454)、下国安藤氏の当主・安藤師季が陸奥国下北半島の大畑から蝦夷地に逃亡した。この前年、南部氏が下国安藤義季を自害に追い込んでいる。このため師季が下国安藤氏の家督を相続したが、実際は南部氏の傀儡だったといわれる。

 師季の渡海を支援したのが、上ノ国花沢館主の蠣崎季繁であったとされる。17世紀中頃に松前家が編纂した『新羅之記録』によると、この時師季は、蠣崎季繁を「上国」の副守護とし、当時季繁に寄寓していた武田信広*1を「上国守護」*2に任じたという。

  蠣崎季繁が館主だった花沢館は、夷王山の東南の麓にあった城館で、規模は南北に長さ200メートル、最大幅80メートル程ある。遺構からは、15世紀代の珠洲(すず)焼の擂鉢や中国製の青磁白磁、銭、釘や鋸などの鉄製品が発見されている。

コシャマインの蜂起

 康正三年(1457)春、志濃里(函館市)での和人によるアイヌ青年殺害をきっかけに、アイヌコシャマインが蜂起する。

 コシャマインは、上ノ国蠣崎季繁武田信広らによって打ち取られた。しかし以後もアイヌの蜂起が相次ぎ、大永五年(1523)までに、蝦夷地に点在していた城館など和人の拠点は、陥落した。生き残った和人は皆、松前と天河(上ノ国付近)に集まって住むようになったという(『新羅之記録』)。

勝山館の建設

 寛正三年(1462)、蠣崎季繁が死去。この時既に蠣崎家の家督は、武田信広*3が継いでいた。

 信広の時代、上ノ国に新たな城館として勝山館が築かれる。文明五年(1473)に「上国館」に八幡宮を建立し、「館神」と称したという(『福山秘府』*4)。

 勝山館は天の川河口に位置する夷王山(標高70~110メートル)中腹の尾根を、まるまる一つ利用して造られている。かなり広大な城館で、夷王山も含めた面積は約35万平方キロメートルにもおよぶ。

 尾根の先端部分、つまり館の入口には切岸、柵列、二重の空堀が構築されており、空堀は内側の深いところで幅8メートル、深さ2.5~3.5メートルほどの規模で、切岸の段差を加えると深さ10メートルにもなる。

城館内部に居住する人々

 城館内には中央に尾根を縦貫する道路があり、その左右に建物が建ち並んでいた。蠣崎氏の居城として、「客殿」と呼ばれる対面用の大きい建物もあった。

 武士以外の身分の者も、城館内には住んでいた。発掘調査により、鎧の金具を作る銅細工職人、銑鉄や鋳物などから鋼を作る大鍛冶、その鋼から刃物などを作る小鍛冶の作業場や居住スペースがあったことが分かっている。

 また大量の鏃(やじり)や銛先などの骨角器や漁網の錘(おもり)、マキリ(短刀)の鞘、アイヌのシロシ(しるし)ではないかと疑われる刻印のある白磁皿、丸木弓、イクスパイ(アイヌの木製の祭具)も出土している。

 これらはアイヌが使用するものであり、勝山館にはアイヌと和人が一緒に住んでいた可能性がある。勝山館背後の夷王山山腹に600ほどある墳墓群にも、和人に交じってアイヌの墓が発見されている。

交易の拠点

 勝山館は日本海に面しており、上ノ国の天の川河口部には、港湾施設が設けられていたとみられる。

 文明十七年(1485)、「北夷」(上ノ国以北に住むアイヌ)が、瓦硯をもたらしたという(『福山秘府』)。この硯は、真偽不明ながら3世紀の後漢の有力者・曹操が建立した銅雀台の瓦で作った硯であったとされる。アイヌの交易の中で、中国大陸の製品が蝦夷地にもたらされていたことがうかがえる。

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信広の死後

  信広は明応三年(1494)に死去した。跡を継いだ蠣崎光広は、永正十一年(1514)に松前大舘に移す。嫡男の義広を伴い、小船180艘余りを連ねて上ノ国から松前に進出したという。

 なお勝山館は、16世紀松まで存続したことが、発掘調査から分かっている。居城移転後も引き続き、蠣崎氏の支城として使用されたのだろう。

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参考文献

 

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北海道・上ノ国町 from写真AC

*1:ただし武田信広は近世松前家の先祖とされる人物であり、実際は花沢館主の蠣崎季繁の方が守護となったと考えられる。

*2:蝦夷地の松前に渡った安藤師季は、蝦夷地を3つに分け、それぞれに「上国守護」、「松前守護」、「下国守護」を任命した。

*3:コシャマインを討った功により、季繁の養女となった安藤師季の娘を娶っていた。

*4:近世松前家の家老・松前広長が安永九年(1780)に完成させた。