13世紀末のアイヌの首領の一人。サハリンから海を越え、元朝(大元ウルス)の勢力圏に侵入した。
元朝に侵入するアイヌ
瓦英の名は、元代の記録『元文類』にみえる。1297年(永仁五年)五月、「骨嵬」(クイ)*1=アイヌの瓦英が、「吉烈迷」(ギレミ)*2=ニブフの造った所の「黄窩児船」に乗って海を渡り、「只里馬觜子」(チリマみさき)に至って乱を成したことが記録されている(『元文類』巻41)。
瓦英に率いられたアイヌの一団は、ニブフの協力を得て「黄窩児船」に乗り、間宮海峡を越えアムール川下流域(元朝の支配領域)に侵入したものと思われる。
その後も七月八日、骨嵬の賊の「玉不廉古」(ユプレンク)が、果夥(クオフォ)より海を渡り、拂里河(フリガ)に入ったが、官軍に打ち破られた。
また八月には、渡海してきた吉烈迷人によりアイヌの新たな動きが伝えられた。すなわち骨嵬の賊らが、今年の海が凍る時期に、果夥(クオフォ)を過ぎて「打鷹人」(鷹匠)を連れ去ろうとしている、というものだった。
元朝とアイヌの関係
元朝は13世紀中ごろ、アムール川下流域に勢力をのばし、河口部近くのティル(奴児干)に東征元帥府を設置した。
この頃、吉烈迷は元朝に服属し、自分たちの東にいる骨嵬と「亦里于」(イリウ)という2つの部族によって、毎年侵攻されていると訴えた。このため1264年(文永元年)十一月、元朝は骨嵬の地に軍を進めて征討した(『元史』巻5)。これがアイヌと元朝の戦いの発端となった。
特に1284年(弘安七年)から1286年(弘安九年)の3年間、元朝は毎年骨嵬の征伐*3を行った(『元史』巻13、巻14)。サハリンへ渡海しての遠征だったとみられる。
瓦英らの侵入の約10年前まで、元朝によるアイヌ攻撃が断続的に行われていた。
瓦英らの服属
1308年(延慶元年)、瓦英は「王善奴」(イウシェンヌ)らとともに、吉烈迷人を通じて元朝への服属を申し出た。吉烈迷の頭目・「皮先吉」(ピシェンキェ)に刀と甲を差し出し、毎年珍しい皮を献上すると約束したという(『元文類』巻41)。
以後、元代の史料からは、瓦英らアイヌの状況はうかがえない。次にアイヌが中国の史料にみえるのは、100年以上後の明代になってからとなる。