戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

チョコレート(スペイン) chocolate

 スペインの副王領であるヌエバエスパーニャ(メキシコ)で普及したチョコレートは、17世紀前半までにはスペイン本国でも上流階級を中心に多くの人々を魅了する嗜好品となった。飲用には背の高いチョコレートカップが用いられ、中国製あるいは日本の肥前磁器のチョコレートカップも輸入されていたとみられる。

チョコレートの伝来

 1544年(天文十三年)、スペインに初めてカカオ飲料(チョコレート)が渡ったことが記録に見える。この年、ドミニコ会士たちがグアテマラのケクチ・マヤ族の代表団を伴って、スペインのフェリペ皇太子を訪問。代表団が持参した贈り物の目録によると、ケツァル鳥の羽根や陶製の器、漆塗りのヒョウタン、トウガラシ、サルサなどとともに「泡立てたチョコレートを入れた容器」がスペイン宮廷に持ち込まれた。

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 ただスペインとメキシコ(ヌエバエスパーニャ)との間は、多くの人間が往来しており、その中でチョコレートがスペイン本国に伝わった可能性もある。一説によると、征服者たちとメキシコに来たシトー会のアギラール修道士が、チョコレートにその処方を添えて、アラゴンのピエド修道院に送ったのがヨーロッパにもたらされた始まりとされ、またアステカ王国を滅ぼしたエルナン・コルテスに付き添ったフランシスコ会のオルメード神父がスペインにもたらしたともいわれれる。

 実際にヌエバエスパーニャでは、教会や修道院などキリスト教関連施設でチョコレートカップが数多く出土している*1。上記の逸話が残されていることも踏まえ、チョコレートがヨーロッパにもたらされて広がったのは、キリスト教の聖職者たちによるところが大きかった可能性が指摘されている。

 なお、カカオが本格的に海を越えてスペイン本国に輸出されるようになったのは比較的遅かった。公式のカカオ豆の荷が最初にメキシコのベラクルスからスペインのセビリアに届いたのは、1585年(天正十三年)のことであったとされる。

チョコレートカップの輸入

 17世紀前半にはチョコレートの飲用はスペイン本国でも普及していったとみられる。1641年(寛永十八年)、スペイン本国を目指してベラクルスを出帆したコンセプシオン号がカリブ海のドミニカ沖で沈没。その積荷の中に中国磁器のチョコレートカップとみられるものが含まれており、この頃のスペインにはすでにチョコレートカップの需要があったことが知られる。スペインの画家アントニオ・ペレーダ・イ・サルガドの1652年(承応元年)の絵にも染付チョコレートカップが描かれている。

 そして17世紀後半には、日本から肥前磁器によるチョコレートカップが輸出されるようになる。スペイン本国では、カディスアンダルシア州)出土の染付芙蓉手チョコレートカップが知られ、生産年代は1660〜1680年代、高台内には染付で「大明年製」銘が入る。またマドリッドの国立装飾美術館所蔵の染付芥子文チョコレートカップもあり、高台内に「太明年製」銘が入る。

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チョコレートの作り方

 スペインにおけるチョコレートの作り方は、16世紀後半のメキシコ(ヌエバエスパーニャ)における標準的な方法を踏襲していたとみられる。

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 1701年(元禄十四年)に出版されたイギリス人旅行家E・ヴェリャードの著作には、17世紀後半におけるスペイン人のカカオマス*2製造法が記されている。

スペイン人はヨーロッパで唯一、完全なチョコレートを作る連中だと評判なので、私は是非ともその方法を覚えてやろうと思った。それは次のようなものである。

20ポンド(約9キログラム)のカカオ豆を用意し、それを4つか5つの山に分けて、それらを別々に穴のたくさんあいた鉄の鍋に入れ、炎がまったく出ないくらいの弱火にかけて乾燥させる。その間、ずっと休みなくかき混ぜる。殻が剥がれてきても、充分に乾燥したとは言えない。豆が、指で触るとすべすべして、軽く押すだけでぼろぼろと崩れるが、塵のように粉々にはならないという状態になるまで続けなければならない。

こうして下ごしらえしたカカオを、箱または何かの容器に入れ、きっちり蓋をして、2時間おきにかき混ぜる。夜の間に2、3回これをやらないと、発火する恐れがある。翌日、それを石の上に載せ、麺棒で軽く押し潰して殻を剥がす。殻は吹き分け、残っているものは注意深くつまみ出さなければならない。

それからサース(ふるい)にかける。不純物がすっかり取り除かれたら、チャフェンディッチ(こんろ付き卓上鍋)で石を暖めながら、その上で練り粉状の塊り(マス)になるまですり潰す。全部の重さを量り、細かい粉末状にした砂糖を加え、合計で25ポンド(約11キログラム)になるようにする。そこへさらに4オンス(約100グラム)のシナモンを加え、手でよく混ぜ合わせて一塊りにする。それから前と同じようにすり潰すが、但しもっと強く、時間をかけて、すべてが完全に混ざり合い、全体がカカオ色になるまで続ける。

次に、バイリーリャ(バニラの莢)25本(各人の好みに応じて加減してもよい)を細かい粉末状にしたものを加え、砂糖を入れた時と同様に、混ぜてすり潰す作業を繰り返す。さらに場合によっては、少量の乾いた砂糖とともに乳鉢で粉末状にすり潰した麝香を1ドラクマ(約4グラム)加え、再びよくこね合わせる。あるいは、少量のアチョーテ(食紅)を加えることもある。これは西インド諸島産の赤土のようなもので、色をつけるのに使う。だが、後の2つは必ずしも加える必要はない。

最後に、それを各人の好みに応じて平たい円形や煉瓦形、あるいはロール形に形作る。ロール形を作るには、1枚の褐色紙を四つ切りにし、それぞれに大体同じ分量(目方で分けてもよい)の塊りを載せる。それを揺さぶって端から端へと転がしながら、ロール形を形作る。また平たい円形は、同様の1枚の紙に10から12個の塊りを載せ、それをテーブルに叩きつけてあちこちを転がすようにする。煉瓦形を作るには、紙でその形の型を作り、そこへチョコレートを入れる。そして、冷えて乾燥するまでそのままにしておく。

 また1644年(寛永二十一年)にマドリードで出版されたアロンソ・コルメネーロ・デ・レデスマの本には、一般的に使われていたチョコレートのレシピがより詳細に記されている。

カカオの豆100粒につき、トウガラシについてすでに述べたもののうちチルパトラグアと呼ばれる大きなものを2つ混ぜ合わせる。またはこれにかえてスペインのもっとも長くて辛い胡椒にすることができる。

アニスを1つかみ、もし便秘なら、ウィナカシュトリドスというオレフエラ、そしてメカスチル(紐の花)と呼ばれるもの2つかみ。またはそのかわりに、スペインでは、アレキサンドリアのバラ6つをを粉にしたもの、カンペチェのバニラ1つ、シナモンを2ドラクマ、アーモンドとヘイゼルナッツをそれぞれ1ダース、砂糖を半リブラ、アチョーテ(食紅)を色がつくくらい。もしインディアスのものが手に入らないなら、そのほかのものでもよいであろう。

 これに加え、コルメネーロは、メロンの種、バレンシアヒョウタンの炒った種や、香りのために、竜涎香や麝香を加えることができると述べている。

 そして飲む方法は、冷たいままで飲む場合と熱くして飲む場合があるが、熱くする場合は、まず水にチョコレートを砕いて溶いて、泡は別の容器に移し、残りに砂糖を入れ火にかける。熱くしたあと、別にした泡のうえにかけ、飲む。またはチョコレートを砕いてヒョウタンに入れ、お湯を少しかけ、かきまぜ棒(モリニーリョ)で砕き溶く。十分溶かしたあと、お湯を注ぎ砂糖を入れて飲む。または冷たいままで飲む。または少し水を入れた壺にチョコレートを入れ、溶けるまで熱する。砂糖と水を加え、油が表面に浮くまでゆでる。

 冷たいチョコレートには「カカオ」と「カカオ・ピノリ」という2種類があるとコルメネーロは述べている。「カカオ」はまず水にチョコレートを入れかきまぜ棒(モリニーリョ)で溶く。出た泡は取り除いて別にする。沈殿物のほうに砂糖を加え、上のほうから泡を入れた容器のほうへ注ぐ。そして飲む。「カカオ・ピノリ」のほうは、カカオと同じ量の炒ったトウモロコシを混ぜて作ったものであるという。

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フランス人の記録

 1680年(延宝八年)、フランス大使の妻としてスペインに滞在していたマリー・ド・ヴィラールは、友人に宛てた手紙の中でチョコレートについて述べている。

私はチョコレートの食餌療法をしています。私が健康でいられるのは、そのおかげだと思います。といっても、むやみに摂るようなことはせず、ちゃんと用心しています。私の体質は、この食物を受け入れるのに適していないらしいのです。

それでも、チョコレートはすばらしく、たいそう美味です。自宅で作らせていますが、別に害などありません。始終、またあなたにお会いできたらと思っています。そうしたら、あなたにもきちんとチョコレート療法をさせて、こんなに健康によいものはほかにないと言わせてみせるのに。天晴れ、チョコレート!というところね。

私が今スペインにいて、チョコレートがほとんど唯一の楽しみだということを、お忘れなく。

 またマリー・ド・ヴィラールと同じフランス人で、ちょうど同じ頃にスペインに滞在していた物語作家マリー・カトリーヌ・ル・ジュメル・ド・バルヌヴィル(マダム・ドーノワとして知られる)は、フランスに帰国後、滞在中の体験を書き綴った本を出している。そこには、当時のスペインの上流社会におけるチョコレートの流行が分かる描写もある。

 1679年(延宝七年)に王女たちの一人に招待された軽食会において、数種のコンフィテュール(果物の砂糖漬け)が出された後、

・・・次にチョコレートが出た。磁器製のカップ一つ一つに、金で飾られた瑪瑙の受け皿がついており、同様の砂糖壺が添えられていた。冷たいチョコレートや熱いチョコレート、ミルクと卵が入ったものもあり、それをビスケットというか、水気の少ない小さな丸パンにつけて食べる

・・・(中略)・・・おまけに、胡椒やいろいろな香辛料がふんだんに入っているので、人々の体が燃え上がってしまわないのが不思議なくらいだ。

 マダム・ドーノワはさらに、彼女が出会った女性たちについて書いている。

歯並みは良く、ちゃんと手入れをすれば白くてきれいだろうが、彼女たちは一向に気にかけていないようだ。歯をだめにする砂糖やチョコレートに加えて、あちらでは男性も女性も、誰の前であろうとお構いなしに爪楊枝で歯をせせるという悪癖がある。それが風習になっているのだ。

参考文献

  • 八杉佳穂 『チョコレートの文化誌』 世界思想社 2004
  • ソフィー・D・コウ/マイケル・D・コウ(訳 樋口幸子) 『チョコレートの歴史』 河出書房 1999
  • 野上建紀 「太平洋を渡ったチョコレートカップ」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 野上建紀 「スペインに渡った肥前磁器の流通ルートについて」(『多文化社会研究』9 2023)

ジャン=エティエンヌ・リオタール作「チョコレートを運ぶ娘」
1744年頃 パブリック・ドメイン
泡立ったチョコレートがカップの上面に盛り上がっているように描かれている

ファイル:Jean-Etienne Liotard - The Chocolate Girl - Google Art Project.jpg - Wikipedia

アントニオ・ペレーダ・イ・サルガド作「黒檀のチェストのある静物
1652年 パブリック・ドメイン
チョコレート沸かしとモリニーリョおよびチョコレートカップが描かれている。添えられたパンはチョコレートに浸して食べた。

File:Pereda, Antonio de - Still Life with an Ebony Chest.jpg - Wikimedia Commons

*1:オアハカサント・ドミンゴ修道院をはじめ、アンティグアのサント・ドミンゴ修道院ハバナのサンタ・クララ修道院などで出土している。

*2:カカオをすり潰してペースト状にしたもの。その後冷却すると固形となる。