戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

温科 種重 ぬくしな たねしげ

 毛利氏被官。筑前宗像氏にも属した。官途名は吉左衛門尉。弟に波賀多親秀がいる。12端帆の大型船を複数所有し、筑前から山陰にかけての日本海海上活動を行った。

毛利氏への協力

 弘治二年(1557)四月、大内義長と長門国守護代内藤隆世が自害。大内氏は毛利氏によって滅ぼされた。温科氏の中には、温科刑部丞のように所領を闕所とされた者もいた(『閥閲録』巻109)。

 一方で、種重は毛利氏に従った。同年六月十日、温科吉左衛門尉(種重)は、山口の市川経好と祖式友兼と相談のうえで陶氏の中間・佐藤宗左衛門尉親子誅伐に馳走し、かつ負傷したとのことで毛利氏から賞されている(「竹井文書」)。

「旅役」と海上通行特権

 種重は、毛利氏から所領を与えられていなかったが、数年に渡って馳走したらしい。年未詳九月、毛利元就から働きを認められ、分国津々浦々の堪過が3艘分永代に認められた(「竹井文書」)。

 この特権はしばらくして縮小された。永禄七年(1564)八月十三日、毛利氏の山口奉行・市川経好と常栄寺恵心は、毛利元就・隆元が認可した内容を改め、種重の12端帆の持船3艘のうち1艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除することを、赤間関肥中関、関、須佐関、温泉津関の奉行に告げている(「竹井文書」)。

kuregure.hatenablog.com

 また市川経好らは「無足数年旅役其外於所々苦労候」とも述べている。種重が自前の船で毛利氏に対する「旅役」を務め、その見返りとして日本海側の毛利領国諸関の堪過を得ていたことが分かる。種重はこの特権を利用して、海上輸送による収入を得ていたものと推定される。

 このため海辺での情報収集にも長けていた。年未詳九月、「長州浦辺逆心之者共」の企みを耳にして通報したことで毛利元就から感状を得ている。

波賀多親秀からの所領譲渡

 永禄十年(1567)十月九日、種重は毛利輝元から、周防国吉敷郡小鯖庄近延名5石と同所下村国近名10石の所領を安堵された。これら所領は、元は波賀多親秀*1の給地だった。しかし親秀が小早川隆景の吹挙状を添えて、兄の種重に譲る旨を毛利氏に申請し、認められたことで、種重の所領となっていた。

 親秀としては、所領が少ないにも関わらず、御公役が頻繁で負担に耐えかねていたところ、種重からの助力の申し出があったという。また親秀は、小早川隆景から預かった米も使い果たしていたので、給地を代わりに差し出そうとしていたらしい。そこで事情を聞いた種重が、親秀に同道して安芸国に赴き、隆景に詳しく説明し、米の返済も自身が引き受ける事にした。愁訴の費用も種重が負担し、祝儀として親秀に銀子850匁を渡している。

 種重が海上輸送に携わり、財力を成していた事がうかがえる。

筑前宗像氏との連携

 毛利氏に「旅役」の馳走をしていた頃、温科種重の拠点は赤間関にあったらしい*2。永禄二年(1559)頃の十月、筑前国人・宗像氏貞が竹井伊豆守に対し、「関表」(赤間関)の状況は、「吉左」(吉左衛門尉の略)が知らせると伝えている(「竹井文書」)。

 当時、宗像氏貞は一族の宗像鎮氏と豊後大友氏の侵攻を受け、毛利氏の来援を頼み大島(福岡県宗像市)に逃れていた。種重は赤間関にあって、毛利氏の動きを宗像氏貞に連絡する役割を担っていた*3。あるいは物資輸送等も行っていたのかもしれない。

 氏貞率いる宗像勢は、翌年の永禄三年(1560)三月二十七日に許斐要害を夜襲し(「宗像神社文書」)、旧領回復を遂げている。

宗像田島の屋敷

 天正二年正月に書かれたという「宗像小路屋敷帳」写には、田島(現在の宗像市田島)の諸小路とされる福田・北小路・中小路・土橋・片興・大谷・山下・上殿・津瀬に屋敷地を与えられた宗像氏家臣、宗像社の神官・寺院・鍛冶・銀細工の職人などが書かれている(「宗像文書」)。

 当時の田島は、釣川をさかのぼり、宗像社と隣接する上流の諸小路の場所までは船による往来が可能であったという。そこに宗像家臣、神官、職人が混在する町場が形成されていたとみられる。

 その諸小路の一つ大谷には「三ヶ所 温科吉左門」とある。宗像社と密接に関わる商品の流通・集積の拠点でもあったとみられる諸小路に、種重は複数の屋敷を持っていたことが分かる。

御家人温科吉左衛門

 天正五年十一月二十日、焼失していた宗像社の第一宮宝殿の再建がなり、棟上が行われた。この時のことについて書かれた「第一宮御宝殿御棟上之事置札」の「彫物之事」には、「御家人温科吉左衛門尉」の名がある。種重は、氏貞に「御家人」として仕えるようになっていた。

 宗像社宝殿の造営にあたって、宗像領内諸浦の船に対し役銭が課された。加えて大船は帆一端につき何銭という割合で役銭が課される事になっていた。種重は少なくとも、永禄七年に12端帆船を3艘所有していたので、それなりの役銭を負担したのかもしれない。

 また造営用の材木は、上は石見国益田、下は肥前国松浦からも調達された。種重は日本海でも海上運送に携わった経歴があり、資材調達と運送に大きな役割を果たした可能性が指摘されている。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

f:id:yamahito88:20210912135626j:plain

門司側から眺めた関門海峡赤間関

f:id:yamahito88:20210912140153j:plain

高山頂上部の展望台から眺めた須佐湾と日本海

*1:幼名は菊寿丸。波賀多世秀の養子。天文二十二年(1553)閏正月、世秀の跡を継ぐ事が大内氏から安堵されている。

*2:温科氏は、赤間関との関わりがある。大内氏時代、長門守護代内藤興盛の奉行人が佐甲民部左衛門尉を赤間関問丸に任じた際、公事銭のことは温科兵庫允と相談するように指示している。温科兵庫允は、内藤氏の赤間関代官であったと考えられている。

*3:温科種重との関係は不明だが、温科盛長宗像正氏宗像氏貞の父)の与力として活躍し、宗像社領を預けられている。