戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

牛肉(肥前) ぎゅうにく

 16世紀、ポルトガルなどヨーロッパ人の来航により、日本では牛肉や豚肉を食べる文化が広がっていった。17世紀初頭に長崎で刊行された『日葡辞書』には、「Guiunicu(牛肉)」という単語が収録されている。「Vxino nicu(牛の肉)」と説明されており、牛肉食の定着がうかがえる。特に16世紀末の長崎では多くの住民が牛肉を食べていたという。

古代からの牛の産地

 『肥前風土記松浦郡の条には、値嘉島(五島列島の一島)について「彼の白水郎は馬、牛に富めり」とある。また『延喜式』の諸国馬牛牧の肥前国の項には、庇羅馬牧(平戸市)、生属馬牧(平戸市生月)、櫏野牧、早崎牛牧(南島原市)が記載されている。

 鎌倉期の『国牛十図』および『駿牛絵詞』にも、筑紫牛(壱岐嶋牛)および御厨牛(肥前国宇野御厨の貢牛)が紹介されている。肥前国が古代から牛の産地として知られていたことがうかがえる。

ポルトガル人が伝えた牛肉料理

 天文十八年(1549)8月、日本の薩摩国坊津に上陸したフランシスコ・ザビエルは同月15日に鹿児島にいたる。同年11月5日、ザビエルはインド・ゴアのイルマン(修士)たちに宛てた書簡の中で、日本の食文化にについて、以下のように記している。

彼等は家畜を殺して食ふことなく、時々魚を食す。米および麦あれども少量にして、野菜は多く、果物は少しく産す。

 少なくとも当時の薩摩国には牛などの家畜を食べる文化はなかったことがうかがえる。

 その後、ポルトガル人の日本来航にともない、彼らの牛肉料理を日本人が食べる機会も増えていったとみられる。弘治三年(1557)10月、肥前平戸に滞在していたポルトガル人のイエズス会司祭ガルパル・ビレラは、書簡*1の中で以下のように記している。

当日は大なる祝日なりしがゆえに、約400人のキリシタン一同を食事に招きたり。ただし多数のキリシタンはすでに去り、山口のキリシタン等は来らざる者多かりしなり。この食事のため我等は牝牛一頭を買ひ、その肉とともに煮たる米を彼等に饗せしが、皆大なる満足をもってこれを食したり。

 イエズス会の司祭(パードレ)によって、日本人に牛肉料理が振舞われたことが分かる。上記の「牛肉とともに煮たる米」は、アロス・コム・ワカ(牛肉入りのパエリア)という料理と推定されている。

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牛肉を売る日本人

 天正十五年(1587)六月、九州を平定した羽柴秀吉は、博多においてイエズス会副管区長ガスパール・コエリョルイス・フロイスに、「牛馬は人間にとって有益な動物であるのに、どうしてこれを食べるような道理に背いたことをするのか」と詰問したという*2

 これに対しイエズス会副管区長らは、自国では大量の家畜を飼育している為、農業に害を与えることはないのだと回答(『フロイス日本史』)。続けて、日本国内での牛肉食について以下のように述べている。

パードレたちはポルトガル船で入る湊にいる時には、ポルトガル人と一緒であったから、時として牛肉を食べることはあったが、五畿内その他の遠隔の地に散在しているパードレ達はすでに日本人の常食に馴染んでおります。
日本に来るポルトガルの商人達には、この件で我らパードレから注意喚起いたしましょう。ただし、日本人が彼らに牛肉を売りに来る以上、彼らが牛肉を利用するかどうかは保証の限りではありません。

 イエズス会のパードレは、ポルトガル船では牛肉を食べることはあったが、日本にあっては現地の食文化に合わせていたとしている*3。一方で、ポルトガル商人たちに対して、日本人が牛肉を売っていたという実態も分かる。

牛肉食の広がり

 ルイス・フロイスの『日本史』によれば、朝鮮出兵の際に名護屋佐賀県唐津市)ではポルトガルの服装が大流行していた。この時、ヨーロッパの食物への関心も高まっていたという。

私たち(ヨーロッパ人)の食物も彼ら(日本人)の間ではとても望まれております。とりわけ、これまで日本人が穢れるとして非常に嫌悪していましたや牛肉料理がそうなのです。太閤様までがそれらの食物をとても好んでいます。

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 16世紀末にジョアン・ロドリゲスにが著した『日本教会史』にも、日本の牛の用途や牛肉食について記載されている。

家畜では、ただ犬が狩猟のために飼われ、鶏や鴨や家鴨を飼うのはただ娯楽のためであって食用にするためではない。なぜなら、(日本)王国中で、豚、牛のような家畜は不浄のものと考えられ、家畜一般の用途はその肉を食うのではないからである。
もっとも、ナウ(船)や商船で日本に行くポルトガル人との商取引でポルトガル人に売るために、これらの家畜を(日本人が)飼っている。
また、すでにこの地の多くの者がこれらのものを食っているのであって、ポルトガル人と取引するために諸地方から集まって来る商人や、一部の領主その他の者が、薬だとか珍しい物だとかいう口実のもとに食っている。

 ポルトガル人に売るために牛や豚を飼っていた、という点は前述のイエズス会副管区長らも言及していた。さらにポルトガル人と取引する商人や一部の領主が、薬用などと称して牛肉を食べていたとされている。

 また文禄三年(1594)に平戸に来航したスペイン人のベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは『日本王国記』の中で、長崎における牛肉需要の急増と、これにともなう価格高騰について言及している。

たくさんの牛がいるが、それを土地の耕作と荷運びに使用している。女たちは馴らした牝牛に乗って行く。牛に話すことを教えるわけではないが、(牛が)よく理解するように仕込む。
彼らはこの家畜を前には食わなかったので、私が(15)94年にこの王国に来た時は、一頭の牛(vacca)が4、5レアールの値であって、骨を除いた牛肉35カテ(斤)を1マスで売っていたが、それは40リブラあまりである。今日では1マスで厳格に目方をかけて4カテもくれない。
つまり現在ではここの住民がみな牛を食うからであり、また以前はこの都市(長崎)には3000の住民だったのに、今では2万5000(人)以上いるからである。

 以前は長崎では牛肉を食わなかったが、「今日(1600年ごろ)」では、値段も8倍以上するようになっている、とアビラ・ヒロンは嘆いている。その理由について、長崎の住民が牛肉を食べるようになったこと、さらに牛肉を食う長崎の住民そのものが急増していることを挙げている。

イギリス商人と松浦鎮信

 慶長十七年(1612)八月、江戸幕府は直轄領に禁教令を出す。同時に「牛を殺す事御禁制也、自然殺す者ニハ一切不可売事」として、牛の屠殺や牛肉の販売も禁止した(『家忠日記増補追加』25巻)。

 その翌年の慶長十八年(1613)10月10日、平戸に滞在していたイギリス商人リチャード・コックスは、領主松浦隆信の祖父・松浦鎮信から、葱と蕪菁とを入れて煮たイギリス牛肉1片と豚肉の1片を所望されている(『イギリス商館長日記』)。

 翌日、コックスは前述の通り調理した牛肉と豚肉に、葡萄酒1壜と白パン6塊を添え、通訳ミグエルに持たせて鎮信のもとに送った。鎮信はとても喜び、孫の隆信や弟の信実、親類の「主馬殿」を招いて一緒に食べたという。

 同年11月11日にも、コックスは鎮信から、胡椒をかけたイギリスの牛肉2片と、蕪大根および葱と煮た豚肉2片を所望されており、料理人に作らせて鎮信に贈っている。

 短期間に何度も所望していることから、平戸の松浦鎮信は牛肉や豚肉の料理をかなり気に入っていたことがうかがえる。

参考文献

  • 松尾雄二 「文献にみる長崎の江戸時代初期以前の牛肉食について」(『畜産の研究』67巻2号 2013)
  • 松尾雄二 「文献にみる長崎のヒツジ・ヤギなどについて」(『畜産の研究』68巻6号 2014)

長崎県平戸市生月島で放牧されている牛 from 写真AC

*1:「1557年10月28日付、平戸発、パードレ、ガスパル・ビレラのインド及びヨーロッパのイエズス会のパードレ及びイルマン等へ贈りし書簡」

*2:「1588年2月20日付、有馬発、パードレ、ルイス・フロイスからイエズス会総長あて書簡」

*3:1582年1月、巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、イエズス会員が豚や牛の肉を食べることを日本人が嫌悪するとして、在日のイエズス会員は日本食を摂るべしと決定。特に豚や小羊の飼育、牛の屠殺、その皮の乾燥と売却を厳禁とした。ただし、長崎、口之津、豊後等の地区は、日本人がそうしたことを見慣れているとして、除外している(『日本巡察記』)。