中世の日本では卵を食べるという行為は、禁忌に属するものだった。ところが17世紀前半には、料理本に卵料理が紹介されるに至る。この変化の原因の一つには、16世紀後半にヨーロッパ人が卵を食べる文化を持ち込んだことがあるといわれる。
禁忌の食べ物
平安期に薬師寺の僧・景戒が著した『日本霊異記』には、卵を日常的に食べていた男が、肉が焼けただれ落ちるなどして死んだという話が載せられている。この話について景戒は『善悪因果経』を引用し、この世で卵を焼き、あるいは煮て食べる者は、死んで熱灰の流れる灰河地獄に落ちると書かれているのはこのことだ、としている。
鎌倉期に禅僧の無住が著した『沙石集』にも、我が子に卵を食べさせていたため、その子らを祟りで相次いで亡くした女の話がある。
このような話が流布した結果、日本人は卵を食べることを敬遠するようになったといわれる。
中世、卵を食べた人
それでも、卵を食べていた人間は存在した。10世紀の貴族・藤原惟成は貧乏であった頃、妻の才覚で立派な長櫃に飯と「鶏子(とりのこ)一折櫃」と擣塩(つきしお)を用意して花見に持って行き、その豪勢さにみんなが驚いたという(『古事談』)。「鶏子一折櫃」は鶏卵一折を意味し、塩を添えていたことからこの卵はゆで卵と推定される。
茄子の漬け物だと偽って、ゆで卵を食べていた僧もいたらしい(『雑談集』)。
とはいえ、卵を食べることは全く一般的ではなかった。室町期には料理書が現れ、有力者の饗応の際の献立の記録も多く残されているが、卵料理の名はまったくみられない。
卵料理の登場
卵料理が史料上で確認できるのは寛永二十年(1643)。この年に『料理物語』という料理書が印刷刊行された。そこには「美濃煮」、「玉子ふわふわ」などの調理法が記されている。
「美濃煮」は玉子を杓子に割り入れ、そのまま湯煮して固まらせたもので、吸物に使う。「玉子ふわふわ」は卵を溶き、出汁、溜り、煎酒で調味し、柔らかく煮るか蒸すもの、であった。
「たまご」の誕生
ところで『料理物語』では、卵はすべて「たまご」と呼ばれている。しかし日本では中世まで、卵(特に鶏卵)は「とりのこ」とか「かいご」と呼んでいた。10世紀成立の『和名類聚抄』は、「卵 和名加比古」としている。
この呼び名に変化の兆しがみえるのが、16世紀末から17世紀初頃。キリスト教の宣教師が編纂し、慶長八年(1603)から翌年にかけて出版した『日葡辞書』には「Tamago 卵」、「Caigo 鶏の卵、または、鳥の卵」、「Qeiran 鶏の卵」の三語が載せられている。その一方でTorinocoは鳥の子紙(和紙の一種)の意味だけが記されている。
「たまご」という言葉は、『日葡辞書』が編纂・刊行された頃に普及し始め、『料理物語』の頃までに定着したものと考えられる。
16世紀後半はヨーロッパ人が日本に来航し、卵を使った料理の存在を日本人に伝えた時期でもあった。「たまご」という言葉が普及し始めた背景には、カステラや鶏卵素麺をはじめとする南蛮料理にふれ、日本人の意識に大きな変化があったことがあるのかもしれない。