戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯨(伊勢・尾張) くじら

 中世、伊勢・尾張の近海では、鯨が多く捕獲された。15世紀以降、史料上に鯨に関する記事が散見されるようになる。16世紀には捕鯨技術が確立されていたことも確認できる。

伊勢、尾張から献上される鯨

 蜷川親元の日記である『親元日記』に、寛正六年(1465)に伊勢から「鯨荒巻」が、文明十三年(1481)二月には尾張織田氏が年始の祝儀として「鯨荒巻」を献上していることが記されている。『親元日記』で鯨を献上しているのは、この伊勢と尾張の武士のみであり、鯨がこの地域の特産物であったことが窺える。なお、「荒巻」とは竹の皮やわらなどでさかなや鳥獣の肉を巻いたものを意味する(『日本国語大辞典』)。

  伊勢・尾張からの鯨の献上は、後の史料にも散見される。『証如上人日記』の天文五年(1536)では、「勢州宮内大輔より当年祝儀として」鯨の荒巻が贈られている。『晴豊記』には、天正十年(1582)に伊勢から「鯨桶」が宮廷に献上された記述がある。

尾張における捕鯨

 尾張織田信長は正月十二日付長岡兵部大輔(細川藤孝)宛黒印状で、九日に知多で取れた鯨(「於知多郡取之由候」)を禁裏に進上し、自分たちが服用した「すそわけ」として藤孝にも贈ることを述べている。この黒印状には「取(る)」とあるので、既に銛や網を用いた捕鯨が行われていたことが窺える。

 また信長は正月十六日付の水野監物宛の黒印状で、鯨一折を贈ってきたことに礼を述べている。水野監物は尾張常滑城主であることから、鯨は常滑が位置する知多半島で取れたみられる。

 天正十年(1582)の『御湯殿上日記』一月六日条には、信長から禁裏へ初鯨が献上されたことが記されている。正月に捕鯨が行われ、朝廷や大名、領主などの公儀に献上されたり、多くの人に「すそわけ」する風習が当時あったのかもしれない。

捕鯨の先進地

 伊勢と尾張における捕鯨については、17世紀初頭に三浦浄心が著した『慶長見聞集』に詳しい。浄心によれば、伊勢尾張両国では鯨を突いていたが、これより東では突くことを知らなかった。文禄年間(1592ー1596)にいたり、間瀬助兵衛という尾張の鯨突きの名人が相模三浦に来て、鯨が多いのを見て、銛と網で鯨を突いたという。

 少なくとも文禄年間には伊勢尾張で鯨を銛で突き、弱ったところを網で捕まえる捕鯨法が確立していたことが窺える。

鯨料理

  当時、鯨は鯨汁として食べられるのが一般的であったが、弘治二年(1556)九月、公卿・山科言継は篠島滞在中に宿の亭主から「鯨のたけり(陰茎)」をふるまわれている(『言継卿記』)。鯨肉の料理法を記した江戸期の『鯨肉調味方』には、たけりは揚げ物または水煮にして生醤油、いり酒で食べるとよいとある。また干したものを、腹痛のとき削って味噌汁にいれて煮れば奇功があるなどと書かれている。

参考文献

  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 盛本昌広 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文間 2008
  • 森田勝昭 『鯨と捕鯨の文化史』 名古屋大学出版会 1994