ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つ。「玉子素麺」とも呼ばれた。 卵黄をジョウロで糸状にして、熱した砂糖溶液に垂らすポルトガル菓子の「フィオシュ・デ・オヴォシュ」(ポルトガル語で「卵の糸」)が伝わったものといわれる。
玉子素麺の登場
寛永十三年(1636)の跋文がある写本『料理物語』には、「玉子素麺」がみえるので、これ以前には日本に伝わっていたものとみられる。調理法は、以下のように記されている。
一 たまごさうめんは
たまごをあけ候て よくかき合 白ざたうをせんじ そのにへ候中へ たまごのからにて すくひて ほそくおとし候也 扨はしにてはさみあげ候也
よく溶いた卵を、割った殻でですくい、沸騰させた砂糖液の中に、糸のように細く垂らして入れて固めるとしている。
玉子素麺は『南蛮料理書』(成立は17世紀前半?)にもみえる。「葛そうめんをつくるように」(葛そうめんは、じょうごでたらして作る)とある。
長崎土産
時代は下るが、享保五年(1720)に長崎の町人・西川如見が著した『長崎夜話草』の長崎土産の項には「ケジヤアド」、「ハルテ」、「カステラボウル」などの南蛮菓子とともに「タマゴソウメン」が唐人の伝承した菓子として記されている。
幕府の鎖国政策でオランダ人が出島に隔離されるなどヨーロッパ人との自由な接触が禁じられると、長崎に来住した唐人が日本人に外来文化を伝える役割を果たすようになっていた。
博多への伝播
博多銘菓の鶏卵素麺の元祖とされる松屋菓子舗の由緒によれば、福岡藩の御用商人・大賀家の手代であった初代松江利右衛門が商用で長崎に赴いた折に、中国人鄭氏より鶏卵素麺の製法を学んだという。利右衛門は延宝元年(1673)に国もとに戻り、博多の呉服町にあった大賀家の屋敷で三代藩主・黒田光之に鶏卵素麺を献上。これが松屋菓子舗の創業とされている。
その品質について福岡藩の儒学者・貝原益軒は『筑前国続風土記』において「長崎又他国より習て製するといへども、当国の製には及はす、国君の厨にても製す。其製もつとも精し」と記している。他国より優れた福岡藩の鶏卵素麺であったが、さらにその最高級品は藩主の台所で製作されたものであった。
タイのフォイ・トーン
17世紀後半、タイ(アユタヤ朝)にも鶏卵素麺によく似た「フォイ・トーン(金の麺)」という菓子が伝来した。これを伝えたのがポルトガル人や日本人との混血であったウィチャーエン婦人であったという。