戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ハルテ farte

  ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つ。16世紀、ポルトガル人の宣教師らによって日本にもたらされたとみられる。当時のポルトガルでは、アーモンド入りの菓子であったらしい。日本では「はるていす」とも呼ばれた。

ポルトガルのスイートポテト

 ポルトガルマデイラ島にはファルテ (Falte)という、サツマイモを使った菓子があるという。同島は首都リスボンの南西約1000キロメートルに位置し、15世紀前半にポルトガル人に発見され、砂糖を重要な交易品とした。

 ポルトガルの郷土料理研究者マリア・モデスト著『ポルトガルの伝統料理』(1993年)によれば、ハルテ(フォルテ)はポルトガル語で「Fartes de batata-doce」、英語で「Sweet Potato and Almondo Cakes」と表現される。つまりアーモンド入りのスイートポテトを意味する。

 アーモンド入りのスイートポテトの生地を四角に切ってオーブンで焼いたもので、ビューレ状のサツマイモとアーモンド剥き、砂糖、バターに柑橘類の汁と皮などを混ぜて焼くという。

ルイス・フロイス推奨の贈答品

 天正五年(1577)八月、宣教師ルイス・フロイスは中国から日本へ渡ろうとしている巡察師のアレッサンドロ・バリニャーノに宛てた書簡の中で、下記のように日本の大身たちが珍重する物を挙げ、日本での贈答用にそれらを調達して来日するよう助言している。

ポルトガルの帽子に琥珀又は天鵞絨の裏あるもの、砂時計、ビードロ(硝子器)、眼鏡、コルドバの製革、天鵞絨又はグランの財布、刺繍ある上等の手巾、瓶入金平糖、上等の砂糖漬、蜂蜜、ポルトガルの羅紗のカッパ、良きセイラ但し支那製にてよし、良き支那道具、窓に用ふる支那簾に絹糸を以て飾を施したるもの、上等の伽羅又は沈香、ペグー又はベンガラ又はカンパイヤの大箱、紅色の撚糸、支那製上等ジキロー(即ち大なる箱を二つ又は三つ重ねたるものにして広東にて製作し、其地に在る日本人は皆食籠の何なるかを承知せり)、壺入の砂糖菓子及び壺入小菓子、酢漬の唐辛、フランドルの羅紗、又はゴドメシン(山羊の皮の鞣したるもの)、又は毛氈等なり。

 日本では、金平糖や砂糖漬、壺入の砂糖菓子及び壺入小菓子といった、砂糖を用いた甘い菓子が好まれていたことがうかがえる。

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 このうち「壺入の砂糖菓子及び壺入小菓子」については、ポルトガル語では「jarra de bolos de acucar,eoutra de fartes」となっている。つまり「壺入の砂糖菓子とハルテ(ファルテ)」であったことが分かる。

 砂糖菓子やハルテを入れた壺の役割について、1630年(寛永七年)の平戸オランダ商館長日記に「四壺の砂糖入りパン(略)。バター入りの壺を受取るため、彼らをヤハト船に遣わした」とある。「jarra(壺)は船の輸送時における菓子等の保管や保温用に使われたと推測されている。

イギリス商館長リチャード・コックスの饗応

 肥前平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの1618年(元和四年)1月17日の日記には、平戸の唐人頭・李旦が年賀の挨拶に来た際に、ケレモン1著、スペイン産の葡萄酒1罎、並びにポルトガルのアーモンド入り菓子麵麭の入った饗宴用の箱1つ、食麵麭及びその他の砂糖漬類を与えたことが記されている。

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 上記の「ポルトガルのアーモンド入り菓子麵麭」は、英語では「Portingall fartes」となっている。このことからポルトガルのハルテが、日本に存在していたことが分かる。

 コックスの日記によれば、同年1月13日、長崎在住のポルトガル人ジョルジュ・ドゥロイスから書簡が届き、そこにドゥロイスの妻がポルトガルのアーモンド入り菓子麵麭と砂糖菓子の入った壺ひとつ(a jara of Portingall fartes, & suger cakes)が添えられていた。また同年2月25日には、ジョルジュ・ドゥロイスがコックスを訪ねてきて、持参した食麵麭とポルトガルのアーモンド入り菓子麵麭(Portingall fartes)数個をコックスに贈っている。

 当時は長崎でハルテが作られていたのかもしれない。なお、享保五年(1720)に長崎の町人・西川如見が著した『長崎夜話草』には、長崎土産の南蛮菓子として「ケジヤアド」「カステラボウル」「コンペイト」「タマゴソウメン」などとともに「ハルテ」が売られていたことがみえる。

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日本での普及

 日本ではハルテは「はるていす」とも呼ばれた。江戸初期成立とみられる『南蛮料理書』には、「はるていす」の作り方が以下のように記されている。

麦の粉を焼いて粉に砕く。砂糖を練って粘りがでたらこの粉を入れ、こしょうの粉、肉桂の粉も加えてこねて丸める。上皮には麦の粉をこねて冷麦のようにのばしたもので包み、焼く。口伝がある。

 アーモンドやサツマイモが普及していない日本でも作ることができるよう、アレンジされたレシピとなっている。

 日本国内でもハルテは饗応や贈答に用いられた。寛永十二年(1635)九月、明正天皇が父の後水尾上皇の仙洞御所へ行幸した際の御用記録「院御所様行幸之御菓子通」の中に「はるていす」がみえ、16斤(9.6キログラム)が注文されている。また寛永十六年(1639)、中津から田川へ遣わした使者に「はるて」が贈られている(「細川忠興文書」)。

 17世紀後半には、他の南蛮菓子と同じく日本各地に広まっていた。天和三年(1683)の『桔梗屋菓子銘』は江戸の日本橋本町の京菓子桔梗屋河内大掾の記録であるが、そこには「かすていら」「こんぺい糖」「あるへい糖」「丸ほうる」「かるめいら」などとともに「はるてい」が見える。

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参考文献

  • 西村和正 「幻の南蛮菓子「ハルテ」―日本初のスイートポテトか―」(いも類振興会 編 『いも類振興情報』112号 2012)
  • 西村和正 「幻の南蛮菓子「ハルテ」(続編)ーハルテの調理場所とサツマイモを熊本に伝えた与右衛門とはー」(いも類振興会 編 『いも類振興情報』153号 2022)
  • 江後迪子 『南蛮から来た食文化』 弦書房 2004
  • 荒尾美代 「二條城行幸時の饗応献立における南蛮菓子ー新史料を用いてー」(『食文化研究』No.18 2022)
  • 村上直次郎・訳 渡邊世祐・注 『異国叢書』耶蘇会日本通信・下 雄松堂書店 1928

長崎夜話艸 5巻 国立国会図書館デジタルコレクション