ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つ。砂糖と卵白を煮つめて泡立たせ、冷まして凝固させた菓子。16世紀、ポルトガル人の宣教師らによって日本にもたらされたとみられる。
ポルトガル人宣教師と南蛮菓子
かるめいらの語源は、ポルトガル語の「caramelo」で砂糖菓子をさす。カラメル,キャラメルと語源は同じ。
16世紀、ポルトガルの宣教師らによって、カステラや金平糖、有平糖などとともに日本に伝わったとみられる。17世紀前半に小瀬甫庵の著した『太閤記』には、伴天連が「きりしたんの法」を広めるために、市を立てて見物人を布教する様が以下のように記されている。
見物などに件の人来りしかハ、上戸にハ、ちんた、ぶだう酒、ろうけ、がぶね、みりんちう、下戸にハ、かすていら、ぼうる、かるめひる、あるへい糖、こんべい糖などをもてなし、我宗門に引入る事尤ふかかりし也。
下戸に対しては「かるひめる」(かるめいら)をはじめ「かすていら」「あるへい糖」「こんべい糖」など南蛮菓子をもって勧誘していたとしている。
また弘化三年(1846)に刊行された『原城記事』にも、弘治三年(1557)頃の肥前唐津におけるポルトガルのばてれんたちの布教の様子が記されている。
角寺鉄異老(かすていら)、復鳥而(ほうる)、革二滅以而(かるめいる)、掩而皿兮(あるへい)、哥目穴伊(こんへい)等甜甘奇味ヲ製シ、客ヲ延キ交ヲ結
かるめいらを含む上記の菓子は、キリスト教の教会などで宣教師たちの指導によって作られたと推定される。
かるめいらの作り方
江戸初期の成立とみられる『南蛮料理書』には、かるめいらの製法が以下のように記されている。
氷砂糖一斤(600グラム)に卵白を右の飴のように加え、煮る。(中略)鍋ごと火からあげ摺り粉木で強く鍋の中ですり、ふくれ上がったら*1摺り木を引き上げ、布団をかぶせておく。口伝がある。
また正徳二年(1712)成立の『和漢三才図会』巻105造醸類でも、浮石糖(かるめいら)が紹介されている。
多く交跡ヨリ来たる。最モ佳美也。
今造ル法、氷沙糖一斤を銅鍋ヲ以て水四合を煎ス。雞卵一箇ヲ取テ、卵黄を去リ、白汁(しろみ)ヲ以テ之ヲ投じる。則ち沙糖ノ塵浮キタツ。其塵ヲ扱(スク)ヒ去テ沙糖蜜ト為ル。諸菓子ヲ溲リ、糖蜜に之を用いる。冷定ム則チ糖汁凝テ飴ノ如シ。(後略)
併せて「阿留平糖(あるへいとう)」と「人参糖」が記されている。前者はかるめいらを球状にしたもので、胡桃のように筋を入れるものとしている。
後者は、浮石糖(かるめいら)が完成していない飴の状態の時に、紅花・黄汁を混ぜて冷やし、長さを二、三寸にすると人参(ニンジン)に似た形色になるのだという。琥珀色に近いものが最も佳品としている。
饗応の菓子
寛永十二年(1635)九月十六日から二十日までの間、明正天皇が父・後水尾上皇の仙洞御所へ朝覲行幸を行った。その際に京都の菓子店である虎屋と二口屋に注文した菓子名および数量、値段が「院御所様行幸之御菓子通」に記されている。
菓子の種類は合計で22種にのぼり、その中には南蛮菓子も5種が含まれており、「かるめいら」は「あるへいたう」「かすていら」「けさしいな」「はるていす」とともにみえる。なお「かるめいら」の注文数量は10斤(6キログラム)であった。
寛永十五年(1638)の自序がある『毛吹草』には、京都の物産として「冷泉通ニ南蠻菓子」が挙げられている。当時、京都には虎屋・二口屋以外にも南蛮菓子を扱うところが存在していたことが分かる*2。
その後も饗応の際の菓子として「かるめいら」は用いられた。宝永七年(1710)、徳川家宣の将軍就任への慶賀と琉球国王・尚益の即位に対する謝恩使として、琉球国から使節団が来訪。同年十一月二十三日、江戸城本丸での饗応で後菓子として、「かすていら、蜜柑、枝柿、くるみ、かるめいら」が出されている(『通航一覧』巻10)。
民間への普及
上記の琉球使節の饗応に出された頃、「かるめいら」は民間にも普及していた。享保五年(1720)に長崎の町人・西川如見が著した『長崎夜話草』には、長崎土産物だった南蛮菓子が列記されている。
南蛮菓子色々 ハルテ、ケジヤアド、カステラボウル、花ボウル、コンペイト、アルヘル、カルメル、ヲベリヤス、パアリス、ヒリヨウス、ヲブダウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン、此外猶有へし
「カルメル」(かるめいら)が、「カステラボウル」や「ハルテ」(はるていす)、「コンペイト」(金平糖)、「アルヘル」(有平糖)なととともに長崎土産として売られていたことが分かる。
また天和三年(1683)の『桔梗屋菓子銘』(江戸の日本橋本町の京菓子司桔梗屋河内大掾の記録)には、「かすていら」「こんぺい糖」「あるへい糖」「丸ほうる」「はるてい」などとともに「かるめいら」がみえる。