砂糖を煮て作られた飴の一種。戦国期、ポルトガル人によって日本にもたらされた南蛮菓子の一つ。語源はポルトガル語のalfeloa(アルフェロア:糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子)ともalfenim(アルフェニン:白い砂糖菓子)ともいわれる。
高級菓子アルフェニン
アルフェニンは、ポルトガルの砂糖生産の一大拠点であったマデイラ島においても高価な菓子だった。1469年(文明元年)、マデイラ島の市民が子爵に宛てた手紙には「アルフェニンとコンフェイトはお金持ちしか食べられない」と記されている。
また1515年(永正十二年)にはマデイラ島フンシャルの領主、シモン・ゴンサルヴァス・ダ・カマラから、ローマ教皇レオ10世へ、アルフェニンで作られた枢機卿たちの等身大の人形が贈られている。
日本で好まれた南蛮菓子
有平糖と同じく南蛮の砂糖菓子である金平糖(コンフェイト)は、永禄十二年(1569)四月に宣教師ルイス・フロイスから織田信長に贈られている。
フロイスは天正五年(1577)八月に巡察師のアレッサンドロ・バリニャーノに宛てた書簡の中で、金平糖や上等な砂糖漬や蜂蜜、壷入りの砂糖菓子などを日本の大身たちが珍重する物の例として挙げている。当時の日本では、砂糖系の甘い菓子が好まれていたことがうかがえる。
織田信長は有平糖を饗応に用いており、天正九年(1581)六月、徳川家康を饗応した際の献立には、「御菓子」として「あるへいとう」がみえる(『御献立集』)。
「こなたへ御かへし被成候へく候」
後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川家康の孫娘)が一条兼遐(後水尾天皇の弟)に宛てた手紙に、「あめ」について書かれたものがある。
此あめ ひとひ 御やくそく申候まゝ とりに たひ候かと 思ひまいらせ候へ共 つゐにとりに 御こし候ハぬまゝ もたせ進上申候
一つハ こなたにて とりかけ まいらせ候 たゝし 入候ハす候ハ、こなたへ御かへし 被成候へく候
約束していた「此あめ」を兼遐が取りに来ないので、持って行かせて進上することを伝えている。一方で、「ただし、ご入用がなければ返してください」とも述べている。中宮にとってもよほどた貴重な「あめ」であったことがうかがえる。この「あめ」は、見ためにも美しい有平糖であったとも考えられている。
寛永三年(1626)九月、後水尾天皇が二条城に行幸した際の饗応では、天皇や徳川秀忠・家光に出された菓子の中に「あるへいとう」がみえる。「あるへいとう」は行幸に関わった諸公家や地下・楽人にもふるまわれた。
また寛永十二年(1635)九月に明正天皇が父の後水尾上皇の仙洞御所へ行幸した際にも「あるへいたう」が注文された。その量は70斤(43キログラム)にものぼっている(「院御所様行幸之御菓子通」)。