ジンチョウゲ科ジンコウ属の植物から生じる香木。この植物の材、とくにその枯乾そた木質の部分などに樹脂が沈着凝集した部分だけを採集したものが沈香木と呼ばれる。熱することで独特の芳香を放つ。
水に沈む香木
中国では、その沈着凝集している樹脂部分が重くて水中に沈むことから「沈む香木」、すなわち沈香の名が生じたという。13世紀の地理学者イブン・サイード・アルマグリビーもまた、ジャワ産の沈香について「その沈香[の木質部の色]は黒く硬質で、まるで[船の船艙に積む]重し(バラスト)のように水に沈む」と説明している。
沈香の産地
沈香の産地としては中国南部や東南アジア(インドシナ半島、ジャワ、スマトラなど)そしてインド などが知られてきた。沈香を代表とする香料類は中国では特に需要が高く、インド洋海域の特産品の中でも最も需要な位置を占めていた。
13世紀成立の『諸蕃志』の第二部「志部」は、東南アジア・インド洋方面から中国に輸入されていた43品目の物産を挙げているが、そのうちの31品目は香料薬品類によって占められ、沈香は5品目、檀香類についても5品目を挙げている。
日本における沈香の用途
日本での沈香の史料上の初見は、推古天皇三年(595)四月、淡路島に「沈水」(沈香)が漂着したという『日本書紀』の記事とされる。その後、平安期には貴族の間で「薫物合」が流行し、沈香を中心に丁香や乳香、麝香などが用いられた。15~16世紀になると、沈香のみを焚き、香気の優劣を争う香合せの遊びも流行していった。
一方で『陰涼軒日録』は長禄二年(1458)の条で「沈、麝、艶色をたしなむこと、禁ぜられるべきよしおうせ出さる」と記している。当時、社会問題となっていたこともうかがえる。
贈答品
貴族社会での沈香の需要は高く、贈答品としての価値も高かった。三条西実隆の『実隆公記』には、永正六年(1509)に沈香が禁裏へ贈られたという風聞や、永正七年(1510)大内氏の家臣から実隆に沈香二切が贈られたことがみえる。
享禄元年(1528)には、大内氏から禁裏へ沈香100斤(60キロ)が贈られている(『お湯殿の上の日記』)。また薩摩の島津氏も天文十五年(1546)に沈香3斤を近衛家へ、天正十年(1582)には近衛前久に百両分を贈っている。
入手ルート
日本へは中国や琉球を経由して、輸入されたとみられる。このため両者との接点が多い西国の大名が、贈答品として沈香を用いていたと考えられる。永禄二年(1559)に琉球から島津氏へ贈られた進貢品中に真南蛮香(タイ産の沈香)50斤がみえる。豊後大友氏も、琉球とのつながりが深い種子島氏から沈香を入手している。
「六国」の成立
また16世紀後半には、沈香の品質が標準化され、品質の高低で名称も分けられるようになった。天正二年(1574)の「建部隆勝筆記」には「名香木所之様体、御尋候、伽羅、新伽羅、羅国、真那班、真那賀、大形如斯候」とあり、後の香道の「六国」のうち、四国が成立していたことが分かる。