戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

真那賀香 まなかこう

 東南アジアのマラッカに由来する沈香。江戸期の香道において、「伽羅」「羅国」「真南蛮」「蘇門答刺」「佐曾羅」とともに「六国」の一つに数えられた。

木所の一つ

 天正二年(1574)の「建部隆勝筆記」には、「名香木所之様体、御尋候、伽羅、新伽羅、羅国、真那班、真那賀、大形如斯候」とある。戦国期には沈香が木所で種類分けされ、その一つに「真那賀」があったことが分かる。

名前の由来

 金地院崇伝の『異国渡海御朱印帳』の目次にあたるところには、朱印船の目的地として十九の国名が列記してある。その中で「摩利加」(マラッカ)について、右側に「マナカ」とフリガナを付け、「利」の字についてだけ左に「リ」と仮名がふられている。17世紀初めにおいては、マラッカの「摩利加」は、マナカあるいはマリカと呼ばれていたことが分かる。「真那賀」が、マラッカに由来する名称であることがうかがえる。

マラッカの沈香

 マラッカはマラッカ海峡をおさえる海路の要衝に位置し、当時の東南アジアの中で最も貿易が栄えた港湾都市の一つだった。トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、マラッカには東南アジア各地の商品が集まってきていた。その中には伽羅(カランバック)もあり、その他の沈香も多く集まっていたものと思われる。

 また『東方諸国記』には、マラッカを訪れる中国のジャンク船が、胡椒などとともに「シンガプラに産する黒い木材」を大量に買い入れていることが記されている。この黒い木材が、あるいは沈香を指しているのかもしれない。

真那賀香の価値

 天正十五年(1587)頃に茶人・山上宗二が著した『山上宗二記』には、十種類の香として「太子」(法隆寺)や「東大寺」などが挙げられている。その中の一つ「花橘」は、木所が「まなか」とされており、「中川、花橘事、まなばん、まなかの香として十種の内へ入る事。不思議なる名香なり。」と記されている。

 真南蛮や真那賀が、伽羅や羅国よりも一段落ちる香木と認識されていたことがうかがえる。

参考文献