奈良の法隆寺に伝来した白檀二点の香木。『正倉院御物棚別目録』に、蘭奢待(黄熟香)や全浅香(紅沈香)と記された沈香木と並んで、天下の名香に数えられてきた。明治初年に法隆寺から皇室に献上され、いわゆる法隆寺献納宝物として現在では東京国立博物館に所蔵されている。
刻銘と焼印
白檀表面にはいくつかの墨書がある。そのなかの「字五年」は「天平宝字五年」(761年)と解釈されるので、この年以前に日本に舶載のあと、他の正倉院宝物と同じ頃、法隆寺の所有となったと考えられている。
この二点の白檀はいずれも60センチメートルほどの大きさであるが、長さ20センチメートルほどにわたる刻銘があり、その端近くには焼印が押されている。刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきた。
パフラヴィー文字とソグド文字
現在では研究の結果、両者の意味は判明している。刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字あり、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名であった。
また焼印の文字はソグド文字のニーム(nym)とスィール(syr)であり、その意味は「二分の一シール(重さおよび貨幣の単位)」であった。ソグド文字はかつて中央アジアに住んでいたイラン系原住民ソグド人が用いた文字である。
ペルシャ(イラン)系商人の活動
輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは、古今東西広く行われている。このことから法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、白檀の原産地から日本への流通・輸送の過程において、ペルシャ(イラン)系商人が深く介在したことを示している。
実際、7・8世紀、中国の文献史料からは「波斯人」すなわちペルシャ(イラン)系商人が、「波斯船」に乗って中東からインド、東南アジアそして中国にかけての広範囲で交易活動を展開していたことがうかがい知れる。
ティモールなど東南アジアから積み出された白檀は、中国の広州や揚州などの市場を経て、日本の博多などに陸揚げされて最終的に法隆寺に納められたと考えられる。その流通の過程にはペルシャ(イラン)系商人が深く関わり、荷物の同定の必要のため、白檀に刻銘と焼印が付けられたのである。