豊後国で製造された鉄炮。豊後国は刀剣の生産地としても知られ、鉄炮製造のための技術的・資源的な素地に優れていた。豊後大友氏は、永禄年間には将軍足利義輝から鉄炮複製を依頼されており、豊後での鉄炮製造がよく知られていたことがうかがえる。
豊後への鉄炮技術移入
速水郡日出の鍛冶・伊藤祐益は天文十五年(1546)、種子島に渡って十年間修業した後、大友宗麟に鉄炮鍛冶として仕えたといわれる。鉄炮伝来の地である種子島系の技術が、豊後に移入されていたことがうかがえる。
また豊後にはポルトガル船が直接来航しており、ポルトガル人から直接的に技術を導入できる環境にもあった。天文二十三年(1554)正月、大友義鎮(宗麟)は帰京する飛鳥井前大納言雅綱に託して「南蛮鉄放」を将軍足利義藤(義輝)に進上している(「大友家文書録」)。
この「南蛮鉄放」は、その名称から貿易によってポルトガル人から大友義鎮が入手したものとみられる。義藤はこの鉄炮を喜び、幕臣・大館晴光によれば「鉄放数多御座候得共、只今御進上無類候、一段相叶御気色、御秘蔵非大方儀候」だったという。
豊後における鉄炮製造
弘治元年(1555)から2年間日本に滞在した鄭舜功は、帰国後に記した『日本一鑑』の中で「手銃」の生産地の一つとして豊後を挙げる。『日本一鑑』では「手銃」について、「初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也」とする。すなわち鄭舜功は、「手銃」について、ポルトガルが起源であり、中国人密貿易商人が初めて種子島の島民に教えたもの、と認識していた。
永禄初年には、より明確に豊後国での鉄炮製造を知ることができる。永禄元年(1558)閏六月、大館晴光は将軍足利義輝の意を奉じて、大友義鎮に「御本」を遣わして「鉄放」の進上を求めている。「御本」とは義輝が貸与した鉄炮とみられ、この「御本」鉄炮を模製して献上せよとの要請であったと考えられている。
永禄二年(1559)正月、大友義鎮は「御本」をもとに作った「手火矢」(鉄炮)一挺を、先ず以って将軍に進上した(「大友家文書録」)。
しかし、この鉄炮は義輝の意に沿うものではなかったらしい。同年九月、大館晴光は義鎮進上の「鉄放」(鉄炮)について「御本」と相違しているとし、再度「御本」を差し下すので「少しも相違無き様」作成して急度進上するよう義鎮に命じている。
戦争に投入される鉄炮
16世紀中頃の豊後国に渡航した経験を持つポルトガル商人フェルナン・メンデス・ピントは、『東洋遍歴記』の中で以下のように記述している。
1556年(弘治二年)に日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。
誇張があった可能性を差し引いても、豊後府内には相当な数の鉄炮が集積されていたことがうかがえる。
永禄四年(1561)、大友氏は豊前国門司をめぐって毛利氏と合戦。江戸期成立の『大友記』によれば、このとき大友勢は鉄炮千二百挺(『陰徳太平記』では数百挺)を投入して攻撃を仕掛け、毛利方の小早川勢に大きな損害を与えたという。
大友氏の鉄炮政策
永禄六年(1563)十二月、大友氏の加判衆は連署の下知状で、三重郷の甲斐本鍛冶に鉄炮製作を命じ、その際、「炭・地鉄」を支給するとしている。豊後の国東半島は鉄の産地として知られており、大友氏はそのような資源を管理、供給することで、鉄炮製造もまた管理していたことがうかがえる。
また天正十二年(1584)四月、大友宗麟は志賀道輝、田原親家を通して後継者の大友義統へ心得を示す(「大友家文書録」)。その条々の中に以下の一文がある。
屋敷普請等、折々油断なく申付られ肝要に候、殊に石火矢・手火矢、弥(いよいよ)、数を申し付られ、玉薬など、段々にその心懸専一に存候こと
石火矢と手火矢(鉄炮)の増産と玉薬(火薬)の確保について、大友宗麟が戦略的な重要事項と認識していたことがうかがえる。