戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

南蛮筒 なんばんづつ

 戦国期、海外から直接移入された鉄炮。当時は有力者間の贈答品としても珍重された。 南蛮鉄炮とも表記される。

秘伝書に記された南蛮筒

 炮術の一火流秘伝書の中の「南蛮筒ノ事」という一条に、南蛮筒の特徴が記されている。すなわち、銃身にいろいろな金属で様々な象嵌がほどこしてある事、銃口の形は筋柑子、丸柑子、角柑子などさまざまである事、などが挙げられている。

 「南蛮筒」として現存する鉄炮もまた、銃身や台尻の形、銃身の長短など様々な仕様となっていて、秘伝書の内容を裏付けている。

大友氏と南蛮筒

  史料上では天文二十三年(1554)正月、足利義輝の側近・大館晴光の大友義鎮宛の書状に、「南蛮鉄炮」が義輝に進上されたことがみえる。晴光は義鎮に対し、進上された鉄炮は将軍所持の鉄炮の中でも無類で、義輝がたいそう気に入ったことを伝えている。

 大友氏は、種子島種子島氏を通じて「南蛮小銃筒」 を入手していることが確認できる。同時に「沈香」なども入手しているので、種子島氏と関係の深い琉球を通じて東南アジア産物資を輸入する中で、南蛮筒を手に入れていたのかもしれない。

 またポルトガル勢力との貿易を通じて入手することも可能であったと思われる。大友氏の府内城からは、南蛮筒の描かれた小柄も出土している。

有力者間の贈り物

 大友義鎮が将軍に贈ったように、南蛮筒は有力者の間で贈答品として用いられた。小牧・長久手の戦いの直前、織田信雄羽柴秀吉から贈られた南蛮筒を餌にして、秀吉方の家臣を粛清している。

 また天正十四年(1586)四月、徳川家康小田原北条氏政に「てつはうなんばん筒」を贈っている。なお、元和二年(1616)四月に家康が死去した際、居城の駿府城には「南蛮筒古シ拾八挺」「番筒古シ二拾挺」が遺されていた(「駿府御分物御道具帳」)。

国産鉄炮の見本

  南蛮筒には、国産鉄炮の雛形としての側面もあった。天文十二年(1543)頃、中国船に乗船して種子島に漂着したポルトガル人が所持していた鉄炮の模造から、種子島筒が製造された例は有名である。先述の足利義輝も、贈られた南蛮鉄炮を見本に堺の鍛冶に鉄炮を造らせている。

 また異風筒とよばれる鉄炮が、少ないながらも史料上に確認される。異風筒は南蛮鉄炮を見本に作成された鉄炮ともされる。

 炮術流派の一つの南蛮流は、「いふう物」の筒拵(つつこしらえ)、すなわち鉄炮製造の際の仕様が秘伝とされた。修行の結果、手前(業=わざ)が上達すれば、弟子はこの秘伝を授けられ、「いふう物」の仕様をもとに鍛治に鉄炮を注文することができたという。

 元和三年(1617)八月、石見国津和野城鉄炮と武具類を書き出した「城鉄炮並武具之目録」に下記の一条がある。

一、六匁筒 但壱尺弐寸 イフウ物不同也 弐百八十五丁

 「不同」は不揃いの意味であるから、形状と長短のさまざまな鉄炮が混ざっていたことになる。「城鉄炮並武具之目録」には、計1020挺の鉄炮が記載されているが、そのうち285挺が異風筒であった。

 元和四年(1618)の肥前島原城にも、石火矢80挺や長大筒100挺の他に「異風筒」300挺があった(『松倉記』)*1

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参考文献

  • 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 平凡社 2006

大日本史料. 第12編之24 駿府御分物御道具帳 御鉄炮之覚
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:城内にこれほど多くの鉄炮があるのは、毎年有馬村の鉄砲鍛冶・北岡大膳に作らせたからであり、石火矢は樹藤権右衛門定政が作ったとも記されている。