豊後国や豊前国に伝来した南蛮料理。ポルトガル人宣教師らがもたらしたパエリア様の料理がもとになっていると考えられ、サフランではなく梔(くちなし)を使って米を黄色く染める。
アロス・コム・ワカと「南蛮料理」
弘治三年(1557)10月、肥前平戸に滞在していたポルトガル人のイエズス会司祭ガルパル・ビレラは、書簡*1の中で以下のように記している。
この食事のため我等は牝牛一頭を買ひ、その肉とともに煮たる米を彼等に饗せしが、皆大なる満足をもってこれを食したり。
上記の「牛肉とともに煮たる米」は、牛肉入りの米料理であるアロス・コム・ワカ(arros com vacca)であると推定されている。その作り方は、薄切りにした牛肉の赤身に塩、胡椒をして、あらかじめ油で炒め別皿に取り、別の鍋にオリーブ油を入れ、サフランで黄色く色をつけた油を加えて炊き、あとで牛肉を入れて蒸す、とされる。いわば、牛肉入りのパエリアであった。
これと似た料理が江戸初期成立とみられる『南蛮料理書』にある。
一 なんばんれうり ひりしの事、にわ鳥いでて、此しるにて米をいかにもしろくして、くちなし水にてそめ、こせう、ちゃうし少、しやうが、にんにく、ひともし、これをきさみ、めしにたき、そのうへにとりをさきて、おき申すなり。
日本では牛肉が手に入らないため、鶏で代用したものとみられる。またサフランは日本に薬用として輸入されたものの、高価であったと思われ、広く普及しなかった。このため同じく黄色く色の染まる「くちなし」を用いたと考えられる*2。
細川忠興が欲した「黄飯」
寛永四年(1627)、豊前中津に隠居していた細川忠興が、子の忠利に対して以下のような書状を送っている。
黄飯ノ料理仕者二人給候、我々存候と替り申候間、上田忠左衛門弟、只今可給候、鳥めしをもさせ、又ナンハン料理させて見申度候
「黄飯」の料理人が2人が忠興のもとに派遣されてきたものの、忠興が知っている味と違っていたので、上田忠左衛門の弟をすぐに寄越してほしいと求めている。忠興としては、彼に「鳥めし」も炊かせたいし、「ナンハン(南蛮)料理」も作らせてみたいのだという。なお「上田忠左衛門弟」は上田太郎右衛門という人物に比定されている。太郎右衛門は南蛮技術に通じ、細川家において葡萄酒やアヘンの製造にも関わっていた。
細川忠興が求めた「黄飯」は、豊前小倉の細川家領国の隣国であった豊後国臼杵の郷土料理として今日まで残っている。江戸期におけるその製法は「くちなし」で色を染める点などが前述の「なんばんれうり(南蛮料理)」によく似ている。あるいは戦国期に海外貿易を展開した大友宗麟の時代に遡るのかもしれない。
農学者・大蔵永常が天保四年(1833)に著した『徳用食鏡』に、当時の「豊後黄飯」の作り方が記されている。
黄飯は栄曜なる様なれども焚方に依て利方に成べければ、爰に豊後臼杵辺にて、もつはら食する通りを記す也。
さて茄子のある時分なら茄子を多く用ふる也、尤小ならば厚サ二三分輪切にし、大ならば二ツにわり、右の厚さに切用ふ。
さて芋萸の生を長サ壱寸六七分に切、三ツ位にわり水にひたし置、牛房をささがきにして是も水にひたし、各よく悪汁(あく)を出し、又葱を壱寸弐三分に切、皆一同に鍋に入、よく焚て醤油をさし、いつも汁などにするよりよく煮て、其所へ魚(こち、かます、くちの類)の小骨なく、油のすくなきを見合、鱗をとり、頭を去り、鍋の中なるかやくのうえに入、しばらくたきてよく煮たる時、箸をもて骨をすごきとり、右かやくとかきまぜ、盒子(かさ)にもり、飯のうへにのせ、かきませて食する也。
此飯は常の飯の通りに仕かけ、其中に梔(くちなし)を水に出し置、すこし入て焚べし、黄色の飯と成也。
利方にたくには、梔を入るにおよばず。
豊後黄飯では、牛肉や鶏肉ではなく魚を用いていたことが分かる。