江戸初期、豊前小倉の細川家では葡萄酒が製造されていた。材料には山ぶどうの一種であるエビヅルが用いられたとみられる。当時、葡萄酒は薬酒として重宝されており、細川家でも葡萄酒製造を重要視していた。一方で葡萄酒はキリシタンと強く関連付けられる飲み物でもあった。
豊前細川家の葡萄酒造り
豊前小倉の細川家では、少なくとも寛永四年(1627)から寛永七年(1630)に葡萄酒を造っていたことが史料上で確認されている。
寛永五年(1628)八月二十八日、「ぶだう酒を作り申時分」(葡萄酒を造る季節)であるとして当主の細川忠利から奉行所に対し、上田太郎右衛門に命じて作らせるよう指示が行なわれた。上田太郎右衛門は南蛮の文化・技術に精通した人物であり、寛永三年に細川忠利の肝煎りで新規に召し抱えた家臣だった。
九月十五日、細川忠利は、上田太郎右衛門が葡萄を採りに「在郷」(太郎右衛門の知行所である仲津郡大村*1)に帰るにあたり、手伝いの人物を手配するよう指示。同日の奉行所日報には、太郎右衛門に仲津郡で葡萄酒を造らせる手伝いに、御鉄炮衆の友田二郎兵衛与(くみ)の中村源丞を遣わしたこと、「がらみ」と薪の代金として5匁5貫文を支給したことが記録されている。
なお「がらみ」というのは山ぶどうの一種であるエビヅルのことで*2、現在も仲津郡大村地域に自生しているという。「がらみ」採りには地元の百姓が郡夫として駆り出され、賃米が支給された。エビヅルからの酒造りについては、元禄十年(1697)人見必大著『本朝食鑑』の蘡薁(えびづる)の項に「当今これを採って酒に醸すと甚だ好い」との記述がある。
九月十六日、小倉から太郎右衛門の知行所(仲津郡大村)へ「さけ作申道具」(酒造りの道具)が送られた。翌年の寛永六年(1629)九月十八日の記録では、葡萄酒を造り込む樽2つが上田太郎右衛門の所へ運ばれているので、上記の「さけ作申道具」には樽も含まれていたのかもしれない。小倉から運ばれた樽の大きさは、だいたい2斗(約36リットル)だったと考えられており*3、葡萄酒生産量は2斗樽2つ分であったと推定される。
また太郎右衛門は樽を運んできた御小人(雑用を務める下級の武家奉公人)に、「黒大つ」(黒大豆)を自分で調達することを伝えている。このことから、葡萄酒の材料に「黒大豆」が使われていたことが分かる。この「黒大豆」は葡萄酒の発酵を促進する材料だった可能性が指摘されている。多湿の日本で、野生の葡萄の糖分だけでは十分な発酵は望めず、大豆の酵母を添加して発酵を助けさせたのかもしれないという。
そして寛永六年十月朔日の「奉行所日帳」には、上田太郎右衛門が葡萄酒2樽を仕上げ、仲津郡から小倉へ届けられたことが記録されている。葡萄酒を作り込む樽を小倉から運んでから約2週間経って酒が仕上がったことがうかがえる。
なお、完成した葡萄酒は江戸に送られていたらしい。寛永五年九月二十四日付の「奉書」には、「ぶだう酒」を去年江戸へ遣わしたほど、今年も送るがいいかどうか、殿様にお伺いを立てたことが記されている。
人材の育成
細川家は葡萄酒の製造と並行して、葡萄酒を造ることができる人材の育成も図っていた。寛永五年(1628)九月十五日付の「奉書」に、当主細川忠利が上田太郎右衛門に対して、葡萄酒の造り方を甥の上田忠蔵に教えるよう命じたことがみえる。
同時に細川忠利は、忠蔵が病気などをした時の用心のために「歩之御小姓」(忠利に近い奉行クラスの家臣)の内からしっかりした者一人にも教えるべきとする意向も示した。これを受けた奉行所は、上田忠蔵とともに「歩之御小姓」から赤尾茂兵衛を葡萄酒製造法の教授対象者として選定している。
葡萄酒造りの担当奉行には、ある程度の専門性が必要だったことがうかがえる記録もある。
寛永七年(1630)四月七日、奉行所は上田太郎右衛門の所へ葡萄酒造りの手伝いの人員を手配するとともに、酒造りの奉行には高並権平を命じた。ところが、四月十四日に「歩之御小姓」の海田半兵衛が登城してきて、奉行衆に対して「今度、葡萄酒造りの奉行に高並権平が命じられたが、以前から自分がやっていたので、差し替えてもらうようにと歩の頭衆から言われて登城した」と申請。奉行所はこれを「可然候由」として、海田半兵衛に奉行を命じている。
薬酒としての葡萄酒
細川忠利は葡萄酒を薬酒として用いるつもりであったとされる。忠利は葡萄酒だけでなく忍冬酒や人参酒など、さまざまな薬酒を造らせている。
細川家が肥後国に移った後の寛永十七年(1640)、肥後の隣の日向国縣の有馬直純から、体調が悪いので葡萄酒がほしいとの依頼があった。忠利は八月七日付で下記のように返事をしている。
御気色しかと無之由ニ付而、ぶどう酒参度由、我等給あましハ江戸ニ置候而、此方へ持而参、給かけ候入物共、此印判を口ニおし進之候、事之外、薬とハ覚申候
忠利は体調が悪い有馬直純のために、江戸に置いてある飲み残しの葡萄酒を取り寄せて、飲み口の封に印判を捺して提供しようとしていることが分かる。そして最後に「事之外、薬とハ覚申候」(思った以上の薬だとは思います)とも記しており、忠利が葡萄酒を薬として重視していたことがうかがえる。
なお葡萄酒の薬酒としての効能については、『本朝食鑑』にも「腰腎を煖め、肺胃を潤す」とある。
きりしたんをすゝめ候時入申酒
前述のように細川家での葡萄酒製造は、寛永四年(1627)から寛永七年(1630)の間のみ史料上で確認できる。細川家では、寛永七年以降のどこかの時点で、葡萄酒製造を中止したとみられる。その背景には、当時葡萄酒がキリシタンに勧めるのに用いるものとの認識があったことがあるとされる*4。
寛永十五年(1638)、信濃国松代の真田信之が江戸にいた細川光尚(忠利の子)に葡萄酒を所望。そのことを光尚から聞いた忠利は、真田信之に以下のように書き送った。
葡萄酒御用之由、肥後守迄被仰越由ニ而、申越候、内々貴様御すきと存候間、長崎をも尋させ候へ共、きりしたんをすゝめ候時入申酒にて御座候とて、それを気遣、わきニハ一円売買無御座候、今程舟一そう参候へ共、未口明不申候故無御座候、廿年計以前ニ参葡萄酒にて、去年我等ニくれ申候を給候て、残を壺ニ入、江戸ニ召置候様ニ覚申候間、ぶどう酒ハ少御座候も不存候ヘ共、壺なから進之候へと申遣候間、誘以下むさと仕たる躰ニ而可有御座候
忠利は真田信之が葡萄酒が好きだと知っており、長崎まで問い合わせもしたらしい。しかし、葡萄酒はキリシタンに入信させるのに用いる飲み物だということで、それを心配して周囲では一切の売買がなくなっているのだという。結局忠利は、自身が去年入手した20年前の葡萄酒を壺のまま進上することにしている。