初夏に実を付けるケシの未熟な果実から出る乳液を乾燥させてつくった茶褐色の粉末。鎮痛、鎮咳、催眠などの効能があった。江戸初期、豊前小倉の細川家では「あひん」が製造されていた。
細川家の新技術導入
豊前国小倉の細川家で製造された「あひん」は、アヘンを指しているとみられる。『日本国語大辞典』では、ケシの汁のラテン語オピウムの中国語音訳「阿片」(アーピエン)に由来するとしており、これを日本人が聞いて「あひん」と表記した可能性が指摘されている。
細川家ではアヘンの製造を上田太郎右衛門尉という家臣が担当した。太郎右衛門尉は寛永三年(1626)閏四月に新規に召し抱えられた新参の家臣だったが、南蛮の文化と技術を修めていた。細川家では、南蛮技術の一つ「万力」の導入や葡萄酒製造にも関わった。また細川忠興(三斎)に請われて黄飯や南蛮料理を作ることもあった。
上田太郎右衛門尉は薬品の製造技術ももっていたとみられる。召し抱えられた直後の寛永三年(1626)に萩の油*1と「ねり」(ねり薬)を造り、京都にいた細川忠利に送り届けている。
アヘン製造の記録
細川家には寛永六年(1629)における「あひん」(アヘン)製造関連の史料が残されている。
同年四月五日、アヘン製造のために浅黄椀(黒い漆塗りの上に浅黄色の模様を施したお椀)が十人前必要ということになり、奉行所から御客人賄奉行の住江甚兵衛に対して調達のうえ上林甚助に渡すよう指示が出された。上林甚助は御掃除奉行であり、上田太郎右衛門尉の上司にあたる。植林や花の栽培を一手に任されており、細川忠利やその息子光尚の薬膳や薬を薬用植物から作ったりしている人物でもあった。
四月十五日、上田太郎右衛門尉が奉行所に登城し、アヘン製造のために唐金の鍋(青銅製の鍋)が一つ要るので調達してほしいと申し入れを行った。奉行所は家老の有吉頼母(英貴)のところから借りてきて、太郎右衛門に渡している。
四月十七日、太郎右衛門尉が奉行所に登城し、「アヘン製造はすべて終了して、あとは干すまでにして組頭の上林甚助に渡した」と報告。2日後の四月十九日、出来上がったアヘンが奉行所に納められて、すぐに御天守奉行の林隠岐守に渡された。その量は、大小39丁(枚)、内1丁は上々の品、残りの38丁は並の品であった。納品時、太郎右衛門尉は林隠岐守に、天守か、どこでも風の吹くところ、つまり風通しのいい場所に置くようにと伝えている。
四月二十三日、小倉の惣奉行衆から江戸の細川忠利の側近飯田才兵衛宛に以下のようなアヘン製造完了の報告が行われた。
あひんこしらへ申時分にて御座候ニ付、仕様上田太郎右衛門能存候間、こしらへ可申通申渡、出来仕候、正味拾両又並のあひん拾壱斤三拾目御座候、併次第ニかたまり申候ほとへり申候よし申候、只今可致進上候へとも、今少かたまり候てから上可申と存候而、此度上不申候
完成したアヘンの量は正味10両(375グラム)、並のアヘンが11斤30目(約6.7キログラム)であった。ただし、次第に固まって量が減るため、もう少し固まってから江戸に進上すると報告している。
4ヶ月後の八月二十日、アヘンが江戸に送られた。その時の量については「奉行所日帳」九月二十日条に「あひん大小箱に入れ、三百四拾三匁」(約1.3キログラム)とある。
なお、細川家のアヘン製造の記録は寛永六年しかみられない。しかし前述の四月二十三日付飯田才兵衛宛書状に「あひんこしらへ申時分にて御座候ニ付」、つまり「アヘンをこしらえる季節なので」とあることから、それ以前にも造っていた可能性はある。
参考文献
*1:萩は煎じて飲めば咳止めの効果を発揮する種類がある。