戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小幡 興行 おばた おきゆき

 安芸国佐西郡石道(現在の広島市佐伯区石内)を本拠とする国人。官途名は民部少輔。実名の「興」は、大内義興偏諱とみられる。大永三年(1523)、安芸武田氏によって自害に追い込まれた。

安芸国人・小幡氏

 小幡氏は、鎌倉期に安芸国に移ってきた東国武士の一員と考えられる。南北朝期の文和三年(1352)の史料に「安芸国兼武名 小幡右衛門尉跡」とみえるのが(「小早川家文書」)、安芸国での足跡の早い例となる。

 応永十一年(1404)九月の安芸国一揆契状には、厳島神主・藤原親頼とならんで小幡山城守親行の名が見える(「毛利家文書」)。このことから、小幡氏は厳島神主家の被官である神領衆とは異なり、神主家からはある程度自立した勢力*1であったと推測される。

円満寺領をめぐり

 永正十七年(1520)九月、小幡興行は、押領していた円満寺領を洞雲寺当住宗繁に返還することを、大内氏奉行人である弘中興兼と神代武総に約束している(「洞雲寺文書」)。ただ興行は、「近年押置候子細委細申候」とも述べており、何らかの根拠があったらしい。この件は大内氏奉行人から洞雲寺にも通達された。

大内氏厳島神領支配

 永正十五年(1518)八月、大内義興が長年の畿内滞在から帰国。己斐城に内藤孫六、石道本城*2に杉甲斐守、桜尾城に嶋田越中守をそれぞれ城番として送り込み、大内氏による厳島神領の直接支配に乗り出した。

 なお小幡氏の本拠は石道本城で、同氏は親大内の立場だった。大内氏は、神領支配の拠点の一つとして小幡氏の石道本城に杉甲斐守を入れたのだろう。大永二年(1522)に大内氏の軍勢が安芸武田氏領に侵攻しているので、その前線基地とする目的もあったと思われる。

石道本城の落城

 しかし大永三年(1523)四月、友田興藤厳島神主を自称して廿日市桜尾城を奪取。石道本城の城番だった杉甲斐守は、廿日市で安芸武田方によって討たれた(『房顕覚書』)。

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 この時、大内方だった小幡興行は石道本城にいたが、そこに安芸武田氏の軍勢が攻め懸かってきた。興行は三宅円明寺(現在の広島市佐伯区三宅)に落ち延びたが、ここも落城。十一月一日、親類8人とともに切腹した(『房顕覚書』)。

 後年、小幡氏と洞雲寺による円満寺領問題が再燃した際、興行の親族とみられる小幡行延は、証拠書類が「当城落去之砌」に散逸してしまったと述べている(「洞雲寺文書」)。

小幡氏の石道復帰

 石道には本城とは別に「新城」があり、安芸武田勢は石道占領後は新城を拠点にしていたらしい。大永七年(1527)二月七日、野田興方率いる大内勢がこの新城を攻撃(「萩藩譜録真鍋長兵衛安休」「萩藩閥閲録石川吉郎右衛門」)。城は翌八日には陥落した。

 城番には、興方の副将だった光井兼種が任じられた。翌年の大永八年(1528)八月、兼種は、小幡四郎と相談しながら馳走するよう野田興方らから指示を受けているので(「大内家御判物并奉書写 安富恕兵衛」)、この時点で小幡氏が石道に復帰していたのかもしれない。

 また天文十二年(1543)頃、石道に新関を設置した者として「小幡山城入道」の名が見える。新関で通行税を取り立てたらしく、厳島への参詣者を妨げていると厳島社家が訴え出て、大内氏奉行人によって新関の停廃が命じられている(「厳島野坂文書」)。

参考文献

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三宅円明寺に残る五輪塔の残欠群。

*1:ただ親行の「親」は神主家からの偏諱と考えられるので、ある程度従属する存在だったのだろう。

*2:現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。