戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

木造不動明王立像(島根県雲南市三刀屋町・禅定寺) もくぞう ふどうみょうおう りゅうぞう

 天台宗の古刹である禅定寺(雲南市三刀屋町乙加宮)に伝わる不動明王立像。制作年代は平安時代後期(12世紀)と推定されている。もとは禅定寺観音堂の須弥壇上、本尊観音菩薩立像がかつて安置されていた厨子の右脇に安置されていた。雲南市指定文化財に指定されている。

慶向山禅定寺

 雲南市三刀屋町の禅定寺には、三軀の天部形立像以外にも、観音菩薩立像(重要文化財)や阿弥陀三尊像(県指定文化財)、天部形立像 (市指定有形文化財)といった平安期の重要な作例が伝わる。

 禅定寺は天平年間(729~749)の行基開山による聖武天皇勅願所という寺伝を有する。上記の観音菩薩立像は10世紀後半の制作と考えられており、少なくとも平安前期には何らかの「寺院的施設」ができていたと推測されている。

kuregure.hatenablog.com

不動明王立像の概要と伝来

 像高97.2cm。頭上に莎髻を結う。莎髻は頭頂から周囲へ七弁状に髪の輪をあらわす。頭髪は正面および両側面の髪際のみを巻髪とし、他は波打つ髪束を垂らす。眉根を寄せ、左目は眇め、右目は瞋らせる。口をへの字に閉じ、左上牙を下出、右下牙を上出する。

 火焔光の光背が付属しており、光背裏には以下の墨書銘がある。

 元禄拾五壬午年 佛師松江住後藤次左衛門尉
奉荘厳不動明王尊像并火焔        敬白
 五月吉日 當住 光明院 豪祐

 光背裏墨書銘により、元禄十五年(1702)五月に本像ならびに光背が荘厳(本像の修理と光背の補作か)されたことが分かる。松江住の仏師後藤次左衛門尉ならびに願主とみられる豪祐については未詳。ただし明和八年(1771)から安永二年(1773)にかけての禅定寺の住職は豪瑞という人物だったことが確認できる(『出雲國飯石郡寺院明細帳』)*1

 また少なくとも光背補作の頃には、本像が禅定寺に安置されていた可能性は高いとされる。禅定寺に不動明王像が存在したことについては、江戸期および明治期の地誌類にも記されている。

 すなわち18世紀半ばの地誌『出雲鍬』には「渓光山禅定寺 本堂不動明王 十二天」とある。そして明治初期の『出雲國飯石郡寺院明細帳』の禅定寺の項には、以下の記述がある。

(前略)中昔大内家尼子毛利等当国領掌之刻天文年ノ頃度々戦争兵火ニ諸堂坊宇伽藍等焼失ス雖モ然ルト根本聖観音之尊像始三尊之弥陀鎮守之尊像三尊来迎之弥陀不動尊像等焼残リテ行基及ヒ性空彫刻之尊像今ニ存在ス(中略)

境内仏堂八宇 護摩堂 本尊大聖不動明王 由緒康保之頃中興先徳性空上人堂宇建立勧請之由本尊不動尊則上人栢ノ木ヲ以テ自カラ彫刻安置ス(後略)

 『出雲鍬』および『出雲國飯石郡寺院明細帳』によれば、禅定寺の本堂や護摩堂に不動明王像(不動尊)が存在していたことは確認できるが、それが本像であるかどうかは分からない。

制作年代の推定

 本像は光背など後補の箇所が多いものの、頭体幹部は造像当初のようすを概ね保ち、総じて都の流行に準じた洗練された作風を有すると評価されている。

 頭上に莎髻を結い、頭髪を巻髪とする本像の姿は、9世紀末に天台僧安然が説き、10世紀末の玄朝によってその造形が確立された十九観に基づく。十九観様の不動明王像は平安後期以降に多数作られるが、本像とは異なり頭髪をすべて巻髪とする例が多いという。

 一方、本像の場合は髪際のみを巻髪とし、他は波打つ髪束を垂らしており、こうした折衷風の髪型の作例は11世紀を中心にみられることが指摘されている。ただし本像の場合、全体的に平安後期の中でも鎌倉時代にやや近い頃の作である可能性が指摘されている。このため本像の制作年代は12世紀と考えられている*2

出雲地方と密教

 出雲地方の古代・中世仏教は、島根半島と中国山地のそれぞれに密教系の山岳寺院が多数営まれた点に大きな特色があるとされる。なかでも禅定寺も位置する雲南市の北部は、平安期の尊像の秀作が集中する県内でも有数の地域であるという。

 不動明王はそうした密教寺院で厚く信仰された尊格の一つ。一方で、現在のところ、出雲地方に伝わる平安期の古像はそれほど多く知られていない。そのような中で本像は、江戸期以前の来歴は不明ながら、当地に伝わる不動明王像の秀作として貴重であり、雲南市域で栄えたとみられる密教文化の具体相を知る上で欠かせない存在として評価されている。

関連事項

参考文献

【木造不動明王立像】
島根県立古代出雲歴史博物館 ミニ企画「禅定寺の仏像」にて撮影

【禅定寺 根本堂(左)と収蔵庫(右)】

*1:また禅定寺は近世には鰐淵寺の末寺であり、近世文書によれば鰐淵寺の住僧として名前に「豪」を冠する人物が複数確認できるという。このことから、豪祐は禅定寺の関係者であった可能性が高いとされる。

*2:本像と同様に洗練された衣文とおとなしい体つきを示し、また十九観様に基づきつつ髪際のみを巻髪とする不動明王立像の類例として、兵庫・光久寺像がある。同像には、真偽は定かではないながら、承安原燃(1171)に下賜されたという社伝がある。