戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宮原銀 みやはるぎん

 戦国期、肥後国宮原*1で発見された鉱石。発見当初は、銀鉱石と鑑定されたが、以後の史料には見えなくなる。

小槻伊治の銀山大工周旋

 天文十四年(1545)十二月、相良義滋は朝廷から従五位下に叙され、宮内少輔に任じられた。十一月二十七日、京都から勅使・小槻伊治が海路で八代に到着し、十二月二日に義滋へ口宣を伝えた。相良氏にとっては前例の無い名誉な出来事だった。

 そんな中の十二月十日、八代滞在中の小槻伊治が相良義滋に対して「将亦銀子事、弥此使可被仰渡、目出成就候様、念願候」と述べている(「相良家文書」)。

 十二月十四日、小槻伊治は海路帰途につく。その翌日の十五日、八代を立ったのち島原に逗留していた伊治は、義滋に「銀子事」は隠密にするよう忠告し、石見国の銀山大工派遣を約束している(「相良家文書」)。

 小槻伊治は、当時石見国を支配していた戦国大名大内義隆に召抱えられていたことがあり、伊治の娘と義隆の間には世子も生まれていた。相良義滋は、小槻伊治と大内義隆の関係をふまえた上で、銀山大工派遣の周旋を伊治に依頼したとみられる。

銀山大工による精錬

 天文十五年(1546)、義滋の要請に応え、石見の銀山大工・桐雲が八代にやって来た。七月一日、八代洗切にて銀の精錬が行なわれた(「八代日記」)。

 さらに桐雲は球磨郡に赴き、鉱石の鑑定を行い、結果を義滋に報告した。七月十二日、相良義滋は養嗣子・晴広に対し、「銀石」は「但州石」(但馬国生野銀山の銀鉱石)に勝ると桐雲が言っていると、喜びを伝えている(「相良家文書」)。また「天文十五年丙午七月六日於宮原銀石現出之旨」と記しており、ここから「銀石」の鉱山は宮原にあったと知る事ができる。

 同年七月十八日には、桐雲が球磨郡にて銀25匁を精錬したことが「八代日記」に記されている。

消えた銀山

 しかし宮原の銀山は、これ以降史料に見えない。それどころか、現在銀山跡も全く見つかっておらず、銀鉱脈の存在も地質学的に否定されているという。

 ただ、宮原では大正から昭和の初めにかけて、アンチモニーという金属を精錬するために、輝安鉱石が採掘されていた。輝安鉱石は硫化鉱物の一つで、柱状結晶で条線があり、いわゆる銀色をした鉱石である。この輝安鉱石が、銀鉱石と間違われていた可能性が指摘されている。

 先述の小槻伊治は天文十四年(1545)七月十五日の手紙で、「御知行ノ分クサリ於有之者、天下無双之奇妙候」とも述べている。「クサリ」とは「腐り」であり、アンチモニーの錆びてすぐ砕けて粉末になりやすい性質を示したものであるとも考えられている。

参考文献

  • 原田史教「天文年間における相良氏の銀山開発の実相について」(『日本歴史』519 1991)

*1:宮原は、肥後国人吉盆地の南東部、球磨川支流の棚橋川上流域。現在の熊本県球磨郡あさぎり町岡原。